切断操作

 

2004/05/20


切断操作


切断操作というのは、共同体主義的なムラ社会に特有な問題処理の作法である。

たとえば、誰かがトラブル(例えば、殺人などの犯罪)を起こしたとき、ムラ社会では

「あいつは、変なやつだ。だから、おかしなことをやった」

とムラ人たちは判断する。「変なあいつ」と「変じゃないわれわれ」を切り離す訳だ。これが切断操作

切断操作のメリットは「ムラ人たちの鬱な気分がスッとすること」だ。「あいつが変」「あいつがバカ」で問題を「処理」できる。 他方、デメリットは、トラブルを生む構造的原因が何だったのかについて、ムラ人たちが思考停止してしまうこと。ひょっとしたら、 ムラ社会の制度・構造に原因の一端が潜んでいるのではないかという反省的な思考が、ムラ人たちから失われること。

切断操作」が起きる原因は「共感能力」の欠如。つまり、3人の拘束について「明日は我が身」と思えるなら、過剰な バッシングが起きたり、自己責任論・迷惑論・飛行機代払え論が出ることはない。

宮台さん曰く、近代市民社会が成立するには「あなたと私の立場が入れ替え可能であること」への共感能力が必要だと 言う(アダム・スミスが『道徳感情論』で縷説しているとのこと)。

抜粋部を読んだだけでお分かりの通り、記事自体はイラクでの日本人人質問題に関することです。
たぶん話ズレるけど↓
オウム事件なんかを総括するとき、僕 (そして僕の周辺の人たち) は、なぜ信者たちがあのような事件を起こしてしまうほど教祖に 心酔していたのか分からない。教団の教え、活動が、なぜ (エリートと呼ばれるような) 若者達に影響を及ぼしたのか分からない。
それを理解分析することが第二のオウム事件の防止になる。そのへんのことをきっちり解かることってのは非常に有益だ、と。
ところがそれに則ったつもりで、たとえば 「教義自体は宗教的に非常によく出来ているものなんですよ」、とか誰かが言うと、「貴様は オウムを支持するのか」 というような批判を受ける。たくさんの若者達が実際に影響を受け、反社会的な行動を取るほど心酔した 教祖の魅力とは何なのか?それを探求してこそ、その本質を探ることこそが、あのような恐ろしい事件を二度と起こさないことに 役立つ。「~~のように、教祖は非常に若者の心を掴むのが上手かった。オウムは今の日本社会に絶望していた潔癖な若者達にとって 最良の受け皿になった。そういうところが教祖は凄かった」 などと誰かが分析すれば、「じゃあオマエはオウムを肯定すんのか?」 と いわれたりする。実際、テレビで言ってる元警察官僚がいた。のを前に見ました。
で、冒頭に書いた通り、僕なんかはさっぱりオウムの魅力ってのは分からないんだけど、なぜ彼らはオウムに集まったのか、なぜ彼らは 社会から孤立していったのか、そういうことをいちいち検証するのはすごく大事だと思うんですね。思うには思うんです。
さらにいってしまえば、僕はさっぱり理解できねーといいつつ、ある種の、上で引用した中でいうと 「共感能力」 というものはゼロでは ないんです。それは凶悪犯罪に対しても何もかも、”同じ人間だから共通点はある” 程度といっておきますが、そのつまり、なるべく ”切断操作” をしないようにしなきゃいけないって思ったです。
(まあでも ”バカの壁” は常日頃 僕の中にそびえ立ってるわけですが…)

 

 


2019年現在。

上気の記事は昨夜偶然的に見つけたものなのですが。えーと、自分が書いたものですけど、15年ほったらかしにして眠ってたものを、怪談話探すためにデータ掘ってたら見つけたって偶然ですけど。
(抜粋した元記事ははてなダイアリーでもう無くなって、全文必読だったんですがブログに移行してないみたいで読めません残念)

で、ちょっと関係あるかないかは人それぞれの判断ですが、あるツイートが回ってきて、それをちょっと並列してみたいなと思ったので、全文引用します。↓



日本に一時帰国して10日たって、あぁ、日本ってこうだったなぁ、と思ったこと。

良い意見に対して「おぉ~!いい事言っちゃって」と皮肉っぽく言う。
ひとの失敗を指さして冷笑する。
誰かが楽しかったことをシェアしたら「○○アピールかぁ?」と茶化す。

毎日お互いに自尊心を傷つけ合ってる。


このツイートに対しても、同意不同意の様々なツイートがなされてるわけです。

それでたとえば立場的にインディペンデンスになっちゃうと「逃げ」って言われて、それもそうなんですよねえ。

仕方ないところはあります。「表明」した時点で誰かの論評を受けるのは国民性とか関係ない。引用したツイートに関していえば、少々極端だなと思います。
ただ、確かにそういうところは多い気がしますね。マウントです。
僕の周りの話なので、世間がそういうところだらけとは思いたくないですが、なんとなくそういう空気を感じながら過ごしてますね。
僕もやってしまうんですよ。マウント。自分の我を通すためにですね。自分の正当性を主張するために相手を貶める。そういうつもりじゃなくても相手がそういうふうに取ることはあるわけです。

アメリカ映画なんかで、親友同士が再会すると取っ組み合いするシーンとか見たことありません?実はあれの歪んだ形かもしれないとも思いますよ。(俺、優しい~(笑))
関西の人は、誰かがギャグを言って滑ったら「うわっ、寒っ!」って言って拾ってくれて生かしてくれるわけでしょ?そういうのと少し似てないですか?


って思いたいんですけど、それはタフな世界なんですよねえ。
殴り合いして分かり合うとかもうそれウソだったじゃん、って。
だから僕の「相互理解」の話って破綻してるんですよね。

 

って言うぐらい今日は夏バテで「病んでる」んです(笑)。

 

ちょっと愚痴る。

会社でさー、政治的に負けましてね。
感情的には全員が自分の味方なのにシステム的にどうにもならないという、、、、
やめたこの話(笑)。

 

 

あといっこ。別の話。
これもツイートが回ってきた。


人格はブランドであり「約束」なので、途中で変わると「裏切られた!」となる。

別の言い方をすると、人格とは、他人の「その人の情報処理負担」を軽減するためのサービスである。ゆえに、一向に負担を軽減しなかったりむしろ増やしたりするような人格のあり方に対しては強い批判が向けられる。

自分も含めてですが、他人てまさに他人の一側面しか見れないじゃないですか。
見せないともいえる。

そういえば、遥昔にとても長く一緒にいた人に言われたことがあったの思い出したんですよ。
ものすごく後期にですよ。
あなたにそういうところがあるとは今まで知らなかった
って。

まあ細かい話はいいじゃん(笑)。


人格は確かに相対的なものでサービスなんだよなあって思いました。
僕はそれをよくぶち壊すので切断操作されるんですよね!

 

まとめた!