アムスの思い出 記憶の記録

 

今日はちょっと長話になる。

オランダ。
おそらく彼女がブリュッセルの美術館とか?あとあれだろ?アントワープでドリスとかあのへんの当時の売れっ子のデザイナーのブティックかなんかに行きたくて計画したんじゃないかな。何しろパリから列車で行けるから簡単なんだ(まあ僕は何もしないんですけど)。
俺はアムステルダムだよね。コーヒーショップ。ハシシ。
なのでブリュッセルの何かとかアントワープの何かとかひとつも憶えてない。写真も無い。
まあネットで、有名な観光地とかの画像を見せられれば行ったことがあると思い出すかもしれないけれど、似たようなまったく別の場所の画像を見せられても「ああ、行ったねえ」と答えるくらいもう彼方だ。

 

アムスは最終目的地で、その頃の俺たちはまったくの無計画(マシェリは列車の切符はどういうふうに買うと安くなるとかはちゃんと調べていた)で宿の事前予約をして旅行するという発想がなかった。
(これは1995~6年の話で、つまりインターネットが今ほど普及する前の話だ)
ブリュッセルアントワープを回ってアムステルダムにたどり着いた頃には、という話は割愛する。


確か中心地的な所に広場があって、駅からそこまで歩いたのだが他の都市と明らかに違ったのはバックパッカーの数だ。
みんながその広場(中心街)に向かってぞろそろ歩いていくのだが揃いも揃ってバックパックを背負った連中ばかりでこれから共通のフェスにでも行くかのようだった。
季節は夏。当時のヨーロッパの夏はカラっとしていて過ごしやすかった。俺も短パンだっただろう。
中心街に着いて広場に行くと夥しい数のバックパッカーが集まっていて通りにはコーヒーショップが軒を連ねている。
まずは旅に出たらその土地のインフォメーション(案内所)を探して宿の手配をする。はずが、そこは長蛇の列。並んでいたら日が暮れそうなのでとにかく歩いてHOTELの看板を見つけたら★が無いことを確認してキャナイ(ゲット)ルームトゥナイト的なことを言うのだがどこもかしこもコンプレ(満室)。運河に渡る橋を何本通ったか憶えていない。何軒も何軒も回ったがどこも満室。考えてみたらヴァカンスの季節だった。
とうとうお嬢様はお疲れになられてしまったので、じゃあここで座って待っていてくれと言って俺は方々を走り回ったが今考えると日本語以外まともに話すことも出来ないのに何で一人でホテルの部屋を取ろうとしていたのかよく分からない。道すら知らないのに。ただ当時は何故か話は通じていた。あるホテルでは「たった今最後の部屋が埋まってしまったわ、ごめんなさいね」とマダムが申し訳なさそうに言って心当たりのある別のホテルに電話までしてくれた(そこも満室ではあった)。


俺の体験では、どこの国の人も優しい人もいれば冷たい人もいる。当たり前の話だ。
フランス人は住んでみてルールが分かってくるとけっこう阿吽の呼吸の親切心を感じたし、あといきなりめちゃくちゃ話し掛けてきてこちらが拙い英語で返すと相手も英語を使ってしかも話をやめない(笑)。お互い何を言ってるかほとんど分からないのにカフェのカウンターでエスプレッソを飲みながら旧知のようにおしゃべりをしたことが何度かある(足元のバクティは知らん顔である)。
それと印象に残っているのは、待ち合わせのため街角に立っていたら身長190センチくらいある筋骨隆々の黒人ドラッグクイーンがつかつかとやってきて「今、何時か分かる?」と訊いてきたので「無い(NO)」と答えたことだ。このときの俺はオカマの街娼に誘われたのかと思ってびっくりしたのだが、彼女はとても堂々としてファッショナブルですごく綺麗だったのを憶えている。顔は完全に男だった。
一度だけだがギャラリーラファイエットの場所を訊かれたことがあって、何でめっちゃ東洋人の俺に訊くねん?!と驚いたのだが、よく考えてみると俺はカメラもぶら下げてない地図も広げてない、ウエストポーチも巻いてなければショップの袋も抱えてなくて手ぶらでブラブラしていたわけでそれは確かに道分かりそうですよね。当然分かるのだが説明は出来なかった(もどかしかった)。
イタリアでは駅について売店で市内(ミラノ)の地図を買って、その場で広げてドーム教会はどこだ?と訊いたがまったく通じなかった。ドームどこ?「ドーム?」ドーム、カテドラル!「ドーム...カテドラル...( ゚д゚)ハッ! ドゥオーモ?」そそドゥオーモ!!このレベルでも分かり合えたときはお互いに達成感があってスタンドの親子は地図で示した後、地下鉄の乗り場も教えてくれた。
右も左も分からないのでホテルを探すのにまず本屋に入ってガイドブックを物色したが、イタリア語なのでまったく分からず、イタリア人店員に安宿が載っているガイドブックは無いか?と尋ねたら本を選んでくれて、あろうことか該当ページをコピーしてくれて俺たちは凹んでしまった。タダでくれたんですよ?そんなことされたら凹む。

もちろん、外国にいて不快なことも多々あった。だがあまり染みつかない。親切にされたことや新鮮な驚きがあったことの方がずっと強く記憶に残る。

 

アムスの中心地を縦横無尽に走り回っているうちにそういえばマシェリをどこに置いてきたのかも分からないという状態になったりしたが、最終的に安宿の「ふだん使われていないであろう部屋」を確保した。けっきょく広場近くに戻り、ホテルに交渉したのは彼女だ。
描写は難しいが、およそ清潔感とは無縁の部屋だった。それでも今夜寝るところは確保できた。バックパッカーは広場で寝るんだか寝ないんだか分からないが、俺たちはたぶん安全だ。

表通りにはコーヒーショップが選り取り見取り。どこも観光客に賑わっている。
とすると、ちょっと裏道に入ってみたくなるのが人情というもの(?)。
表通りから外れて観光客相手の店が途切れた所に素っ気なく開いている間口の狭いコーヒーショップに入った。
髭面のおっさんがひとりでやっている小さな店でカウンターの向こうから不愛想な出迎え。
奥のソファー席にはバックパックを持ってないストリート系の格好をした明らかに地元民の若者二人がストーンした目でこちらをじんわりと眺めている。カウンターの席に座ってハシシのメニューを見たが、産地かブランドか表記を見ても何を基準に選んでいいのか分からないのでてきとうにオーダー。
程なく出てきたのは小さなパケに入った細かい葉っぱの屑のようなもの。
で、これをどうするのか当時はまったく分からなかった。過去に巻かれたものは回ってきたことがあったが、自分でジョイントを巻いたことはなかったのだ。
それで軽く途方に暮れていると、カウンターの向こうからおっさんがパケをよこせと言ってきて、これな、こうしてな、こうやってな、こうすんだ。と、一本ジョイントを作ってくれた(どういう会話があったか無かったかは憶えてない)。
有難く頂戴して深く吸い込んで肺に収める。
程なくして店の奥から若者が楽しそうに「それ効くだろ~~。ハハハ」と声を掛けてきた。

 


アムスには二泊した。
帰りの列車に乗る前、手元に残ったハシシが惜しかったがもう時間も無かった。アムスから戻る列車には麻薬探知犬が乗ってくるという噂は吹き込んだのは誰だ?

港に行ってハシシ海に捨てた。
ビニールのパケも海に投げた。これについては謝罪します。

 

 

 

後に、リュクサンブール公園の人気のないところでバクティと一服していたら若い奴が寄ってきて「ハシシあるけど買わないか?」と言われたことがあったが俺は散歩のときは5フラン(100円くらい。カウンターでエスプレッソを飲む金)くらいしか持ち歩かないので「NO(無い)」と答えたと思う。