2008年の記録「タイ支社での話」


2008年に書き留めていた記録が出てきたので公開します↓

 


いわゆる霊的なものを信じるか信じないかでいうと信じている。
その存在を見た、と確認できるほどの視覚体験をしたことはないが、通常では有り得ないと思われる不可思議な体験は何度かしているし、信頼のおける人物からそのような体験談を聞いたりしていると、超自然的な何かが存在することを認めたほうが「辻褄の合わないこと」の説明がつくので納得がいく。

霊を信じるといっても死後魂が生前と同じ意識を持っているとは思っていない。ただ、たとえば風は物を倒すために吹いているわけじゃないが、強い風にあたればチャリンコが倒れたりすることもある。霊もそういう影響を我々に及ぼすことはおそらくあるのだろうとは思う。
ビルの谷間は強い風が吹く。とすれば、「出やすい」霊的スポットの存在も俺には納得がいく。ただまあ風は万物に同様にあたるけど霊は必ずしもそうでないので、こちらが気づくか気づかないかの差はあるかと思う。

 

さて、タイの話だ。
ウチの支社がバンコクにあって、去年は俺も三週間ほど出張した。とうとう業績が上がることなく今年の春に休眠させることにして従業員を解雇し事務所を閉じた。
設立当初は街中のオフィスビルの中に事務所を構えていたが、途中から郊外に一戸建ての住宅を借りて、1階をオフィス、2階を日本からの赴任者の住居として使っていた。
俺がバンコクへ行く2ヶ月ほど前から、ウチの会社の社長が渡タイしてそこで現地スタッフを取りまとめていた。それより前は別の役員が現地法人の社長としてずっと赴任していたのだが、日本での業務の都合により帰国することになったので代わる代わる面倒をみるために、こちらから人を派遣していたのだ。
先に行った社長がよこすメールの中に

「ここはちょっと怖いです。夜は2階で日本から持参した焼酎を飲みながらDVDを観て過ごすのですが、妙な物音がしたりするので、電気をつけっ放しにして寝ています。貴殿が来るときはホテルでの宿泊をお勧め致します」

といった内容の文章が混じっていたことがあった。真面目な人だったので外国で一人暮らしだからビビってんじゃねえか?しょうがねえなあ、と俺は上司と笑った。
それからしばらくして俺が渡タイした。
一軒家は食事など逆に不自由だと思ったので俺は最初からホテル暮らしをすることに決めていた。


バンコクといっても郊外だし、俺は酒もやらないので夜の誘惑もなく、そもそも忙しいから現地まで来たわけで夜は遅くまで仕事をした。
晴れている日はいい。実は雨が降るとちょっと厄介だった。すぐそばに車通りの多い道路があるってことで誰かが今も活動している音が聞こえてくるのだが、雨が降ると雨音ですべて消されてしまう。
もともと湿度の高いところだからか、事務所の中にいても南国特有の雨の匂いというか水の匂いが部屋の中に漂ってくる。


霊が出るときは腐った水の匂いがするという話を知っているだろうか。俺は聞いたことがある。
ということで、これはちょっとヤバいなと思って、残業中に雨が降り始めたときは本降りになる前に急いで帰ることにしていた。ところがタイミングが悪くすぐに帰れないこともあったし、降り始めから一気に土砂降り(スコール)ということもタイでは多かった。そういうときは無駄な抵抗はせず、まず戸締りを確認し、オフィススペースから出て、キッチンに退避する。何故かはそのときは分からなかった。とにかくこの部屋(オフィス)に一人でいるのはよくない、という気になったのだった。
流し台にもたれて煙草を何本か吸い、雨が弱まったと思ったら急いで勝手口から外へ出て、メインの道路まで歩き、タクシーを拾ってホテルへ帰った。
そういう夜が何度かあった。

先の社長ではないが、異国でのひとりの夜、それも街ではないとけっこうビビるものですね(苦笑)。

 


タイで現地採用した通訳のコが今は語学留学で日本へ来ている。ウチの会社でバイトをしている。
最近多かった地震のことで、上司が「地震とお化けだけは怖いw」とか言ったからだったか、何故か幽霊の話になって、実はバンコク郊外のあの事務所は「出る」ところだったという告白があった。

「私は何度か白い服の女の人が部屋の中を横切るのを見ました」

「エアコンのスイッチが勝手に入ったり切れたりしてデュアンさん(同僚)と怖い怖いと言っていました」

「引越しのとき(事務所を閉じるとき)に、いつも来ていた大家さんのところのメイドが、実は掃除の途中でガラス戸が勝手に開いたり閉じたりするのが見えたので、そういうときはその部屋からすぐ出たと言っていました」

とか、わんさか出てきた。


当時知らなくてよかった。

 

 

吃音からの思い出 記憶の記録

 

そういうわけで今、千葉県にいます。


車しか移動手段が無い現場で、仮住まいも最寄駅からは遠い。
同僚的な人に吃音の人がいて、時々その人を最寄り駅まで車で送ることがある。今日とか。
そういえば中学生のときに一時期通っていた塾の先生が吃音だったなと思い出した。

 


僕らは中学生だったので、「先生、ドモってんね」と悪気もナシに言っていて、先生は、ドモりが原因で保護者から苦情が出て学校を辞めざる得なかったと言っていた。それはひどい話だなと子供ながらに思った。まあそれは俺たちは先生が好きだったからだ。


先生の教え方は特殊で、授業は無い。
何をするかというと、問題用紙と解答が書かれた用紙を渡されて、問題を読んで分からなければ解答を見て答を書きなさい。それだけ。
それを何回もやる。問題用紙の種類はいくつもあるので1枚やり終えたら次のプリントに移る。何枚もやっていくと前に見た問題が出てくる。答え書いたな?こう書いたかも。憶えていなければ解答を見て書くだけ。これを何度もやっていくうちに、過去に出てきた問題は記憶の断片を頼りに考えるようになる。これが石川塾の教え方だった。


先生宅の敷地内に建てられたプレハブの中、長机の座卓で俺たちはほとんど寛ぎに来ていた。もちろん時間内に集中して勉強している人たちはいた。
騒いだら静かにしろと言われるが、あとは特に何か怒られることはない。中学生の俺たちは「合法的」に夜間外出出来るので塾には休まず行った。あまり真面目に取り組んだ記憶はない(僕は無事に第一志望の高校に合格しました)。

あまりにダラけて(いつまでも)いると先生が「じゃあ双六やるか」と言い出す。マジかよ~またかよ~と俺たちは不平を言うがもちろんやるし、最終的に白熱する。
双六て…(笑)。
俺もさすがにそこまで旧い時代の人間ではなく、大きな模造紙に書かれた先生お手製の双六は一回で十分だったが、何回もやった。気分転換にはいい。
但しルールがあって、俺たちプレイヤーはサイコロは振るがコマに触れるのは先生だけだ。先生はゲームには参加しないのでコマを動かす。これは今考えるとフェアですね。
双六がどんな感じだったかは1ミリも憶えてない。ものすごい素朴なやつ。


僕らは中学生だったので、「先生、ハゲてきてね?」と悪気もナシに言っていて、先生は、風呂で頭を洗っているときにシャンプーと間違えて風呂釜を洗う洗剤で頭を洗っていたらハゲてきたと言っていた。それは怖い話だなと子供ながらに思った。先生は菊池寛みたいなルックスを思い出してもらいたい。もじゃもじゃ頭だが禿げてきていたごめん指摘して。

 


塾が終わると俺たちはチャリンコに乗って空き地へ行った。昔の田舎には空き地がどこにもあった。誰かの土地だろうが区画はされていないし侵入して騒ごうが誰にも怒鳴られることのない空き地。真っ暗だ。


何をするかって花火戦争するに決まってるじゃないですか。

ロケット花火などを水平打ちするのだが、もちろん顔は狙わない。まあでもどこに飛ぶか制御は出来ないのでみんな下向きにはしていた。分別があったかなかったかは子供なりだ。
俺たちは当てることより派手に飛んでいく様を見たかったのでチャリを縦横無尽に駆りやたらとビリビリ光が散る花火を投げ合って遊んだ。全員敵同士で、少なくとも俺は花火で火傷を負ったことはない。チャリでコケるのは昼間でもあることだ。
瓶のペプシはまず飲んで、それにロケット花火を挿して飛ばしているので、帰りはどこか野良の水道で水を飲んで顔を洗って帰った。

 


言い忘れたが、プレハブの勉強部屋には男しかいない。
女子は本宅の一室で勉強していた。そりゃあ先生もちゃんとしてる。俺たちもその方が良かったんだ。

授業がない塾だったので開始時間も終了時間もない。なので行き帰りに女子と出くわすこともほとんど無かった。

 

ある晩、上中の女子と外でバッタリ会った(俺は西中だった)。

「あんたのこと知ってるよ」

と彼女は言った。

俺だって君のことは存じてましたよ。ショートでキリっとした美人が来てるって。
いつ会えるのかなって思ってました。


以上。話はこれで終わりだ。

 

 

アムスの思い出 記憶の記録

 

今日はちょっと長話になる。

オランダ。
おそらく彼女がブリュッセルの美術館とか?あとあれだろ?アントワープでドリスとかあのへんの当時の売れっ子のデザイナーのブティックかなんかに行きたくて計画したんじゃないかな。何しろパリから列車で行けるから簡単なんだ(まあ僕は何もしないんですけど)。
俺はアムステルダムだよね。コーヒーショップ。ハシシ。
なのでブリュッセルの何かとかアントワープの何かとかひとつも憶えてない。写真も無い。
まあネットで、有名な観光地とかの画像を見せられれば行ったことがあると思い出すかもしれないけれど、似たようなまったく別の場所の画像を見せられても「ああ、行ったねえ」と答えるくらいもう彼方だ。

 

アムスは最終目的地で、その頃の俺たちはまったくの無計画(マシェリは列車の切符はどういうふうに買うと安くなるとかはちゃんと調べていた)で宿の事前予約をして旅行するという発想がなかった。
(これは1995~6年の話で、つまりインターネットが今ほど普及する前の話だ)
ブリュッセルアントワープを回ってアムステルダムにたどり着いた頃には、という話は割愛する。


確か中心地的な所に広場があって、駅からそこまで歩いたのだが他の都市と明らかに違ったのはバックパッカーの数だ。
みんながその広場(中心街)に向かってぞろそろ歩いていくのだが揃いも揃ってバックパックを背負った連中ばかりでこれから共通のフェスにでも行くかのようだった。
季節は夏。当時のヨーロッパの夏はカラっとしていて過ごしやすかった。俺も短パンだっただろう。
中心街に着いて広場に行くと夥しい数のバックパッカーが集まっていて通りにはコーヒーショップが軒を連ねている。
まずは旅に出たらその土地のインフォメーション(案内所)を探して宿の手配をする。はずが、そこは長蛇の列。並んでいたら日が暮れそうなのでとにかく歩いてHOTELの看板を見つけたら★が無いことを確認してキャナイ(ゲット)ルームトゥナイト的なことを言うのだがどこもかしこもコンプレ(満室)。運河に渡る橋を何本通ったか憶えていない。何軒も何軒も回ったがどこも満室。考えてみたらヴァカンスの季節だった。
とうとうお嬢様はお疲れになられてしまったので、じゃあここで座って待っていてくれと言って俺は方々を走り回ったが今考えると日本語以外まともに話すことも出来ないのに何で一人でホテルの部屋を取ろうとしていたのかよく分からない。道すら知らないのに。ただ当時は何故か話は通じていた。あるホテルでは「たった今最後の部屋が埋まってしまったわ、ごめんなさいね」とマダムが申し訳なさそうに言って心当たりのある別のホテルに電話までしてくれた(そこも満室ではあった)。


俺の体験では、どこの国の人も優しい人もいれば冷たい人もいる。当たり前の話だ。
フランス人は住んでみてルールが分かってくるとけっこう阿吽の呼吸の親切心を感じたし、あといきなりめちゃくちゃ話し掛けてきてこちらが拙い英語で返すと相手も英語を使ってしかも話をやめない(笑)。お互い何を言ってるかほとんど分からないのにカフェのカウンターでエスプレッソを飲みながら旧知のようにおしゃべりをしたことが何度かある(足元のバクティは知らん顔である)。
それと印象に残っているのは、待ち合わせのため街角に立っていたら身長190センチくらいある筋骨隆々の黒人ドラッグクイーンがつかつかとやってきて「今、何時か分かる?」と訊いてきたので「無い(NO)」と答えたことだ。このときの俺はオカマの街娼に誘われたのかと思ってびっくりしたのだが、彼女はとても堂々としてファッショナブルですごく綺麗だったのを憶えている。顔は完全に男だった。
一度だけだがギャラリーラファイエットの場所を訊かれたことがあって、何でめっちゃ東洋人の俺に訊くねん?!と驚いたのだが、よく考えてみると俺はカメラもぶら下げてない地図も広げてない、ウエストポーチも巻いてなければショップの袋も抱えてなくて手ぶらでブラブラしていたわけでそれは確かに道分かりそうですよね。当然分かるのだが説明は出来なかった(もどかしかった)。
イタリアでは駅について売店で市内(ミラノ)の地図を買って、その場で広げてドーム教会はどこだ?と訊いたがまったく通じなかった。ドームどこ?「ドーム?」ドーム、カテドラル!「ドーム...カテドラル...( ゚д゚)ハッ! ドゥオーモ?」そそドゥオーモ!!このレベルでも分かり合えたときはお互いに達成感があってスタンドの親子は地図で示した後、地下鉄の乗り場も教えてくれた。
右も左も分からないのでホテルを探すのにまず本屋に入ってガイドブックを物色したが、イタリア語なのでまったく分からず、イタリア人店員に安宿が載っているガイドブックは無いか?と尋ねたら本を選んでくれて、あろうことか該当ページをコピーしてくれて俺たちは凹んでしまった。タダでくれたんですよ?そんなことされたら凹む。

もちろん、外国にいて不快なことも多々あった。だがあまり染みつかない。親切にされたことや新鮮な驚きがあったことの方がずっと強く記憶に残る。

 

アムスの中心地を縦横無尽に走り回っているうちにそういえばマシェリをどこに置いてきたのかも分からないという状態になったりしたが、最終的に安宿の「ふだん使われていないであろう部屋」を確保した。けっきょく広場近くに戻り、ホテルに交渉したのは彼女だ。
描写は難しいが、およそ清潔感とは無縁の部屋だった。それでも今夜寝るところは確保できた。バックパッカーは広場で寝るんだか寝ないんだか分からないが、俺たちはたぶん安全だ。

表通りにはコーヒーショップが選り取り見取り。どこも観光客に賑わっている。
とすると、ちょっと裏道に入ってみたくなるのが人情というもの(?)。
表通りから外れて観光客相手の店が途切れた所に素っ気なく開いている間口の狭いコーヒーショップに入った。
髭面のおっさんがひとりでやっている小さな店でカウンターの向こうから不愛想な出迎え。
奥のソファー席にはバックパックを持ってないストリート系の格好をした明らかに地元民の若者二人がストーンした目でこちらをじんわりと眺めている。カウンターの席に座ってハシシのメニューを見たが、産地かブランドか表記を見ても何を基準に選んでいいのか分からないのでてきとうにオーダー。
程なく出てきたのは小さなパケに入った細かい葉っぱの屑のようなもの。
で、これをどうするのか当時はまったく分からなかった。過去に巻かれたものは回ってきたことがあったが、自分でジョイントを巻いたことはなかったのだ。
それで軽く途方に暮れていると、カウンターの向こうからおっさんがパケをよこせと言ってきて、これな、こうしてな、こうやってな、こうすんだ。と、一本ジョイントを作ってくれた(どういう会話があったか無かったかは憶えてない)。
有難く頂戴して深く吸い込んで肺に収める。
程なくして店の奥から若者が楽しそうに「それ効くだろ~~。ハハハ」と声を掛けてきた。

 


アムスには二泊した。
帰りの列車に乗る前、手元に残ったハシシが惜しかったがもう時間も無かった。アムスから戻る列車には麻薬探知犬が乗ってくるという噂は吹き込んだのは誰だ?

港に行ってハシシ海に捨てた。
ビニールのパケも海に投げた。これについては謝罪します。

 

 

 

後に、リュクサンブール公園の人気のないところでバクティと一服していたら若い奴が寄ってきて「ハシシあるけど買わないか?」と言われたことがあったが俺は散歩のときは5フラン(100円くらい。カウンターでエスプレッソを飲む金)くらいしか持ち歩かないので「NO(無い)」と答えたと思う。

 

フィレンツェの思い出 記憶の記録

 

記憶が引き出せなくなる前に記録をしておきます。


ミラノであまりにも倹約したため興が冷めていたのでフィレンツェに移動したとき自然と宿がグレードアップした(とても可愛らしい部屋だった!)。

食事も高級なところとまではいかないがリストランテとトラットリアの間ぐらいの少し落ち着いたところをとぶらぶらと歩きながら探して雰囲気の良さそうな構えの店を選んで入った。
通されたのが入口からすぐのバーカウンターに隣接した席で、金の無さそうなツーリストの格好だから値踏みされたかと憤慨していたら、隣のテーブルの女性たちが「この席も悪くないわよ(笑)」と言ってくれて恥ずかしかった。
いかにもイタリアのおっさんといった感じのカメリエーレ(ウエイター)に彼女が「魚を食べたい」と英語でオーダーすると、おっさんは俺に「シニョリーナはfishを食べる。おまえはmeatを食え」と言い、リスタ(メニュー)も読めなかったのでこちらは了解した。どのみち大衆食堂では複雑な料理は出て来ない。どうせ焼いた牛肉が出てくるだけだ。
サラダとパスタで既に腹はくちていたがドルチェまで食べた。が、どのような料理だったかまったく記憶にはない。さすがスパゲッティはフランスとは違ってまともだなとは思った。
ビネット(トイレ)に行くため少し仕切られた店の奥に入っていくと中はまあまあ広くて照明は暗く設定されテーブルは満席で人がたくさんいて圧倒された。
(そういう意味ではやはりここはリストランテとトラットリアの間だっただろう)
エントラータのバーカウンター付近のテーブル席スペースは照明が明るく、アペリティーヴォの前の一杯をカウンターで引っかけていく客ももうすっかりいない時間に俺たちは到着していたのでここは静かで窮屈な緊張はしないで済んだ。
カメリエーレのおっさんは中肉中背で特に二枚目でも三枚目でもなく灰色の髪をしていた。
姿勢正しくバーカウンターの中で静かにワイングラスを磨いていたが何脚目かでしくじってグラスを割ってしまった。音に驚いて俺たちが注目すると、カメリエーレは茶目っ気を見せ眉を上げ口元に指を立てたので我々は秘密を共有することになった。
俺のフィレンツェの思い出はこれだけだ。

 

以上にいくつか出てきたイタリア語は、25年以上前にマシェリからもらった「六カ国語会話」というポケットブックを久しぶりに開いて調べて書いた。

 


俺が今でも自信を持って言えるイタリア語は「イルコントペルファボーレ!」お会計お願いします、だけだ。

 

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フィレンツェのホテルの写真(だと思う)

 

ゾーリンゲンの話、ほか。

 

ヘンケルス社の「ツヴィリング」というのがまあ正式な呼び方らしいんですが、僕はゾーリンゲンの刃物と呼んでます。


思い出したんですよね。何で俺そんなにゾーリンゲンの包丁に執着があるんだろう?別にその方面のブランドにこだわりは無いんだけどなあ、と考えてたら。


母方の祖父は銀行関係の仕事をしていた人で、今思うと割とお金持ちだったんです。家はそれほど大きいとは思いませんが(大きかったですが)、庭がすごかったです。別に広いとかではなかったですが、あれは今思うと庶民には作れない庭でしたね。広くはないけど、斜面に計算された植栽がされていて手入れも行き届いてました。
説明が難しいですが、なんて言うのでしょう。引き算じゃないやつ。それと鉢植えじゃないです。古い旅館の小さな庭みたいなイメージかな。ボリューミーで立体感があって。まあいいか。庭ではない所にはまあまあの広さの畑もあって、そこでは祖母が様々な野菜を育ててました。東北の田舎です。
僕は祖父とじっくり対話をしたことはなかったのでどのような人だったかは分かりませんが、印象としてはスクエアな人でしたね。怖い人ではなかったですが、特段優しいという感じでもなかったです。冷たくもなかった。威厳があるとは思ってましたけど、接していたのは中二ぐらいまでなのでちょっと掘れなかったですね(笑)。
ゾーリンゲンな。
祖父が使っていた爪切りがゾーリンゲンの爪切りだったんですよ。
とすると45年くらい前の話ですかね。
さすがに僕らは今と変わらない形の爪切りを使ってましたけど、祖父が使っていたのはニッパーみたいな古い形式のゾーリンゲンの爪切りでした。
ある日(僕は従妹らとともに夏休みなどは祖父母の家で過ごす習慣があった)、祖父が爪切りを新調したんです。そのときにたぶん箱か何かパッケージであの有名なヘンケル家の双子のマークを見たんです。子供だったからああいうマーク印象に残るじゃないですか。それにニッパーだし。

祖父の使っている物というのは子供ながらに何か不思議に魅力的な物が多かったですね。単に自分たちが使っている物と違う物を使って何かをしているという点で。
カメラを手入れしていて、それが何だったのかは知りませんが、要するに道具をメンテナンスするという行為をあまり見たことがなかった。
紙焼きされた写真を持って帰ってきて、写真用の裁断機で白フチを落とすんですよ?あのまあまあ大きな碁盤みたいな台にギロチンみたいなレバーがついたやつでさ。あれは怖かったな(笑)。そういう、老人が儀式めいたことをするって何かちょっと謎の威厳がありましたね。
「謡(うたい)」を人に教える人で(どこまで偉かったのかは知らん)、その辺は僕はまったく興味がなかったので影響もゼロなんですが(笑)、能面とかが飾られてましてね。
僕らが寝る部屋で夜僕が横になって見上げると般若の面が見降ろしてて、それは魔除け的ななんかなんでしょうが、小学生にとってはマジで怖かったですよ!

米寿のお祝いは確かロシア料理の店だったな。
ドイツ製の刃物を使ってロシア料理を好んだ。ってさ、なんかすげえ明治の日本人って感じでいいよね。

 

少し追加。
父方の祖父は洋服の仕立て屋をやってた過去があって。というのは僕が関わる頃にはもう引退してたと思うんだけど、元気だったら僕はスーツを仕立ててもらうことにはなってた。
僕が中学生のときに父親が努力して田舎の田舎に建てた山小屋風の家(センスは良かったよ!)には祖父の仕事部屋があって、ロールの生地や大小の裁ちばさみ、竹の物差しなんか一通り揃ってましたね。
今はもうどこかに行ってしまったけど、手でぶら下げて歩ける時代物のトランクがあって、それと祖父が以前に仕立てた細身のステンカラーコート(ダークブラウンでチェックだった)をもらって、それを着て中学に通ってました。伊達メガネして(笑)。あなたいつの時代の人ですか?って感じでしたよ。さすがにハットは被ってなかったです。

 


だから僕はゾーリンゲンの刃物を買わなくちゃいけないし、オシャレには少し気を使わないといけないんですよ。別に血ではない。環境。

 

 

 


※上等なやつが欲しくて今日は包丁買えなかったゴメン!

 

ログ 2020.07.26

 

死を望んでしまう状態というのは環境や年齢などの様々な要因で、暫しあることだと思う。
「僕が死を望むとき」は若者だったり、少なくともそこにはある種の絶望があり、絶望の前に渇望があるとすればそれは生への執着から生まれるものだ。よく言われるのは生きたいから死にたい、だ。
それも大いにあるだろう。しかし彼女の場合は少し違った意味も含むと俺は考えてしまう。
それを考えたとき、俺は完全に無力であることを思い知らされる。

以上だ。

 


自分について。

死は誰しもが一度ならずとも考えるし、時折何らかの形で触れることがある。そしてそれを越えた先に等しく人間は死んでいく。

死を考えてしまうことと、死を望むことと、死を覚悟することと、死を待つことは違う。

長く生きている中で平均的数値のピークを過ぎて微妙な年齢になると死を意識する。覚悟はないが自分という存在が生から死に向かっていることが確実に認識出来てくる。

視力が衰え、聴覚が衰え、関節が痛み、身体に硬直を感じるとき、俺は今、朽ちていっているだと感じる。


少しずつ朽ちていくのだ。


人それぞれに生き死にの姿があり、俺は俺の人生しか体験していないが、まだ日常生活に何一つ支障は無い。だが、見えていたものが見えなくなり聴こえていたはずの音が聞こえなくなり動くはずの指が痺れ膝の関節が痛み、夜になると眠たくなってぐっすり寝てしまい、朝は割と簡単に目が覚めたときに、俺はもう若くないのだ、残された時間は今まで生きてきた時間より短いのだと気づかされる。


俺は何度か表層的には「この人生ももう下降してソフトランディングで終わりだろう」みたいな諦めを持とうとしてきた。ほぼ諦めていた時期もあった。
諦めておけばいいのにどうしたものか生きるよすがを見つけてしまった。
半年ほど前にはもしかしたら俺はいつまでも若々しく、少なくともかなり充実した人生をこれからも歩めるのではないかという希望を持っていた。
根拠は、自分はまだ他人に対して何か差し出せるものがあるのではないかという自信だ。根拠になってねえな(苦笑)。

甚だ心許ない根拠であったが故に冬を越すあたりには崩れてきた。
俺はまだまだ死なないだろう。
だがゆっくりと枯れていく。
そこにはもう将来は無いのだ。


一年近く前、失神したときに死ぬことは怖くなくなった。
怖くなくなったおかげで生きている喜びを知った。

 

そして今日もゆっくりと朽ちていく。