ログ 2020.07.26

 

死を望んでしまう状態というのは環境や年齢などの様々な要因で、暫しあることだと思う。
「僕が死を望むとき」は若者だったり、少なくともそこにはある種の絶望があり、絶望の前に渇望があるとすればそれは生への執着から生まれるものだ。よく言われるのは生きたいから死にたい、だ。
それも大いにあるだろう。しかし彼女の場合は少し違った意味も含むと俺は考えてしまう。
それを考えたとき、俺は完全に無力であることを思い知らされる。

以上だ。

 


自分について。

死は誰しもが一度ならずとも考えるし、時折何らかの形で触れることがある。そしてそれを越えた先に等しく人間は死んでいく。

死を考えてしまうことと、死を望むことと、死を覚悟することと、死を待つことは違う。

長く生きている中で平均的数値のピークを過ぎて微妙な年齢になると死を意識する。覚悟はないが自分という存在が生から死に向かっていることが確実に認識出来てくる。

視力が衰え、聴覚が衰え、関節が痛み、身体に硬直を感じるとき、俺は今、朽ちていっているだと感じる。


少しずつ朽ちていくのだ。


人それぞれに生き死にの姿があり、俺は俺の人生しか体験していないが、まだ日常生活に何一つ支障は無い。だが、見えていたものが見えなくなり聴こえていたはずの音が聞こえなくなり動くはずの指が痺れ膝の関節が痛み、夜になると眠たくなってぐっすり寝てしまい、朝は割と簡単に目が覚めたときに、俺はもう若くないのだ、残された時間は今まで生きてきた時間より短いのだと気づかされる。


俺は何度か表層的には「この人生ももう下降してソフトランディングで終わりだろう」みたいな諦めを持とうとしてきた。ほぼ諦めていた時期もあった。
諦めておけばいいのにどうしたものか生きるよすがを見つけてしまった。
半年ほど前にはもしかしたら俺はいつまでも若々しく、少なくともかなり充実した人生をこれからも歩めるのではないかという希望を持っていた。
根拠は、自分はまだ他人に対して何か差し出せるものがあるのではないかという自信だ。根拠になってねえな(苦笑)。

甚だ心許ない根拠であったが故に冬を越すあたりには崩れてきた。
俺はまだまだ死なないだろう。
だがゆっくりと枯れていく。
そこにはもう将来は無いのだ。


一年近く前、失神したときに死ぬことは怖くなくなった。
怖くなくなったおかげで生きている喜びを知った。

 

そして今日もゆっくりと朽ちていく。