ジョーカーその前、その後?

 

仕事場における人間について書こうと思ったら、止まらなくなったのでこれ単なる愚痴じゃん?となったのでお蔵入りになりました。


映画「ジョーカー」については、やはり体験だったなあと思ってます。そして体験が終われば終わりだなという感じもありますね。過ぎ行く感情。
ただ手元に無いから。手元にあったらまた観るし、おそらく僕はBlue-rayを買うでしょう(笑)。

 


ジョーカーが公開される前に、僕のツイッターで話題になったのがメンタルの弱さについて。関係あるような無いようなあるような。


メンタルの弱さとは1でしかないことを20や30にまで膨らませて圧し潰されることで、不要に何かと関連付けて意味を見出すからだ、みたいな。想像力があるが故に脆弱性を持っているといった内容です。
そこに「クリエイティビティと不安症は同居するものだ」みたいな共感のリプライがつくわけです。
メンタルの強い人は「現象を現象として捉えて処理する」だけ。と。

僕もツイートを見たとき、「この想像力が無かったら俺の人生はつまらなかっただろうな」と思ったのですが、果たしてそうかな?

僕の友達で自称サイコパスの人がいて、自分には他人に対する共感力などが欠けているし、「マブさんがアイドルの歌を聴いて泣いているのを見ていて本当に羨ましいと思う」とまで言っていた。おまえの方こそアイドルのライブで充分沸いてるじゃねえか(笑)。

まあ今のエピソードは関係ないんですが、別にメンタルの強さと想像力の豊かさって反比例するものじゃないんじゃないの?と思うんですよね。

ただ難しかったのは、このメンタルの強弱について書かれたツイートはまあまあ広く読まれたはずなのですが、僕の見る限りでは「故の弱さ」に対する共感ばかりで、反論が無くてちょっと途中から気持ちが少し萎えました。←メンタル弱い

以上のことは訳あって直接引用せず編集してます。
以下はツイート文をそのまま載せます。


私はインターネットで重用される「共感」という語に強い警戒心を持っていて、その理由のひとつが「共感対象は時に感情を言語化する能力の育成を阻害するから」です。感情や感覚を見つけてながめてさわって名づける前に「共感できる」アカウントやコンテンツで「これこれ」と済ませてしまう。

共感するのが悪いんじゃないです。私が怖いのは「共感する」対象が潤沢に供給される環境をつくって自分の感情や感覚の言語化を外注しつづける、そういう人がたくさん出てくることです。感情や感覚を取り扱う能力は使わなければ萎縮するのです。共感対象というギプスをずっとつけていれば廃用する。

自分の感情や感覚を言語化する能力が衰えた人のところにやってくるのは誰か。搾取者です。「あなたは今こう感じている」「モヤるよね、その理由はこうだ」と言ってくれる存在ーー支配欲の強い人間、悪辣な商売、そしてファシズム。私は大げさな話をしているのではない。とても身近な話をしています。

これは前述したメンタルについての話題より前にツイートされています。まったく関係はありません。


いくつかのことを考えました。
「まさに自分もそれ思った!」みたいなやり取りって日常的にありますよね。
それは別に当たり前に普通に日常。
ただやはり相手に依るなと。相手が相互理解者だったら問題ないと思いますが、たとえばテレビ(ワイドショーのコメンテーターだったり、或いは恣意的なニュースだったり)だったり、映画だってそうでしょう?
それって頭で考えてないよね?って。操作されてない?って。

まあこれ以上は書かない。

趣味の知人っているじゃないですか。
僕なら昔は犬飼い仲間。今はアイドルヲタクです(笑)。
共通の趣味を持っていても共通の「思想」を持っているわけではないので、ダチトモになれるかなれないかは様々です。
僕は別に考え方が違うから友達にはなれない、とかいう話はしません。


まあ、こっから先はまた長くなる(苦笑)。


・想像力とメンタルの強弱は関係あるか?
・共感という一言に洞察はあるのか?
・ジョーカーという映画の結論は?
・寛容とは無関心ではないのか?
ダイバーシティ
言語化難しー!

といった感じですかね。


ほら、1のことを膨らませるからさ(笑)。