愛と平和と相互理解

 

(こんな長いの読みたくねえよ)

 


「相互理解」とは一体何だ?というところはそれなりに突き詰めていく必要があると思いました。というのが今日のネタ。

 

あの、他人との対話(もしくは他人への表現)において「言葉」の定義って非常に大事じゃないですか。

特に僕みたいに修辞が多かったり仄めかしが多いと、自分はこういう意味で言ったつもりだったけど?ということが相手にどのぐらい理解されるかっていうとけっこう間違って伝わる場合もある。まあそれ普通なんですけど。逆もありますしね。

ここでは温度差とか立場とか年齢とか知識とか関係性とか性差とかはちょっと置いておきます。それも意識はしつつ。

似たような例というか、時々障害になるのは「常識」ですよね。俺の常識とおまえの常識は違うんだバカヤローって事案はけっこうあるわけで(僕もやりますよ)。だから僕は「普通」とか「まとも」にカギカッコを付けがちなんですよ。

キリがないんですけどね。これ始めると。だってですよ、じゃあ他人との対話って先ほど書きましたけど、「他人」にも「距離」の「濃淡」がってやってたら話がひとつも進まねえ・・・ってね。

 

自分が悪いところもある。もしかして僕は今まで一般常識をきちんと学んでこなかったのではないか、社会のルールというものに向き合ってこなったのではないかと。

本はそれなりに読んできて、言葉はそれなりに知っているかもしれないけど、やはり偏った世界に沈殿してたのかなあって思いますね。

だって音楽がそうですよ。ついていけない話がたくさんありますからね。知ってるふりしてますけど(笑)。「みんな」が知ってる音楽をぜんぜん知りませんよ。だからと言ってみんなが知らない音楽を俺だけが知ってるとも思ってませんよ。時間は使いましたけどね。でもそれも誰かと比べたわけじゃないし、そもそも関係ない。・・・何を俺は延々と言っとるんだ。

 

言葉の定義をしていくことで「相互理解」を深めていく。

その一歩がまずはその「相互理解」とはなんだろうか?という話です。僕が言っている相互理解とはどういうことなのだろうか。

興味のない人はまあこのへんで今日のコンテンツは終わりかもしれないですが、どんな感じ?という人はまあ聞いてやって下さい。

 

 

はず初めに乱暴に投げてしまえば、相互理解とは「お互いが理解し合うこと」、これで終わりですよ。

ポーン。

 

いやさあ、だから言葉って難しいですよね。

そのために言葉があるのに、これだけでは何も僕の言いたいことは伝わらないかもしれない。伝わってるかもしれない。どっちか分からない。

 

言葉の意味に於いて、やはりここで難しいのは、誰がどこでいつどんな文脈で言ったか、言外に何が含まれているか、ってことが出てきてしまうんですよねえ。

表現の上手な人というのはそれを端的に表わせるから簡潔で美しくなおかつ意味も明瞭な文章を書けるのでしょう。ビジネス文書にも美文というものがあります。議事録なんて特にねえ。僕は下手でしたね。分かるでしょ?ポイントが拾えないんですよ。箇条書きでぜんぶ書いてある。台本かよ!ってね(笑)。

 

「相互理解」については、お互いが理解し合うことで間違いないんですが、僕はそこに確認として、「受け入れる」ということではないし「許す」ということでもないけど、と注釈は入れます。ただ、まったくそこを含まないわけでもないから、総合的に「相互理解」という言葉は便利だなと思ってはいます。理解っていう言葉の匙加減ですかね。

そこの説明はもうやめようよ(笑)。辞書になっちゃう。

 

先進みます。

僕がこの言葉を気に入って使っているのはエルビス・コステロの歌のタイトルだから、って話は以前にしてて、歌のタイトルが「(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding」で、つまり「愛と平和」に「相互理解」がくっついているからなのですね。

「愛と平和」はもちろん素晴らしい概念です。僕も今でも希求してますし、つまりは三点セットですよね。愛と平和と相互理解。

 

僕はパンクスですから、ヒッピーが嫌いなんです。って冗談ですよ(笑)。僕の育った時代ってパンクもポストパンクに時代になってて、同時代的にはメタ的になっていってるわけです。あらゆる既成概念を疑え←という概念も疑え←・・・みたいな感じですかね。

気づいたときにはジョニー・ロットンはパンクは死んだって言った後で、シド・ビシャスは本当に死んじゃったし、ジョー・ストラマー(クラッシュ)はもうパンクやってないし、ってこの話は別の話だ。

 

僕が素晴らしいと思ったのは、ずっと叫ばれてきた「愛と平和」が素敵だけど単なるお手軽なキャッチフレーズに貶められてしまったとき、そこに「相互理解」が足されたことで僕に取ってはとてもリアルになったんですよね。

愛も平和も理想論なだけだけど、相互理解なら僕にも出来るかもしれない、みたいな。

しかもこの歌詞(作詞:ニック・ロウ)、「愛と平和と相互理解したいんだけど、それ笑う?」(意訳)って歌なんですよね。ちょい皮肉っていうか自虐っていうか諧謔っていうか。こぶし挙げて歌う唄じゃないんですよ。ヘナチョコなんです。絶望なんですよ。

「世界狂ってんじゃん?でも俺はさ、愛と平和と相互理解だと思うんだけど、それおかしいかな?」ってさ。あああああ。これが最高のメロディに乗ってるんですよ。これぞロックですよ。って思います。

 

 

つまり、僕の使う「相互理解」には前段に「愛と平和」がくっついていて、その内容はコステロの歌に根源があるということになっていきます。


僕は英語は分からないので日本盤CDについてたライナーで日本語訳を読んだのですが、インターネットにはそれなりに訳が載ってますので是非調べてみて下さい。

 

歌詞の中で、実際のサウンドを聴きながらだとまたすごくクるところがあって、それが「スイート・ハーモニー」というブレーズです。

これは直訳すると「調和」になりますけど、ハーモニーで充分伝わるし、そしてそこにまたいろいろな意味合いを含めることも出来ますよね。

僕は漢字もカタカナもなんでも言葉が好きなので「甘い調和」って直訳したら、それはそれで夢が膨らみますね。でもなんか安いドラマのタイトルみたいッスね(笑)。

 

とにかくですね、この歌「(What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding」の歌詞ですね、これがラブ&ピースだけだったら割と普通だったと思うんですが、そこにアンダスタンディングが入ってて、おかしい?って言ってるっていうところですかね。それが重要な意味かな。

逆にいうとラブ&ビースより相互理解が際立ちませんか?この言い回しっていうんですかね?三点セットって一般的なんですかね?僕は他では聞いたことがないんですけど。

 

 

素晴らしいな!音楽って!

 

Elvis Costello & The Attractions - (What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding
https://www.youtube.com/watch?v=Ssd3U_zicAI
僕はこれですよ。
いつ聴いたかはもう忘れました。20代の初めだと思いますね。
リアルタイムではないです。コステロ先生は意外と遅かったんですよね。
まあ、聴いた通り。すごくないですか?
初期のコステロってある意味で一本調子なんですよ。グルーヴが無いという言い方も出来ちゃう。でもあるんだなあ。ちゃんとある。分かりますかね、僕のこのまた変な褒め方。
あ、聞き逃さないで!「スイーハーモニー♪」のところ。もうシビれますね。
言葉イラネ。

よし、やろう。バンドで。
コステロ先生はバンドで既に2曲コピーしてて実は挫折してるが)


Brinsley Schwarz - "What's So Funny 'Bout Peace, Love, and Understanding"
https://www.youtube.com/watch?v=O4ZZtkYTI3o
こちらはオリジナルのブリンズレー・シュワルツのライブ映像。貴重なんですよ?昔は見られませんでしたから。
唄ってるのが作者のニック・ロウ師匠ですね。この人はこの界隈のボスです。
コステロ先生も美メロの帝王ですけど、この師匠いてこその(師弟関係はないですけど)ですね。
後出しジャンケンになりますけど、オリジナルは若干60年代からのブリティッシュの風味が残ってますよね。もちろん最大の敬意を払いますが、僕はコステロバージョンに先に出会ってしまったし、パンクスだったので(正確にいうとコステロはパンクではない)、というところはありますが。ありがとうございます師匠!あなたがいなければ俺は生まれなかった!
(あああああ、でも芽吹きがあるなああああああああ←リピートしてる)


Brinsley Schwarz - (What's So Funny 'Bout) Peace, Love & Understanding
https://www.youtube.com/watch?v=1J1CfXFlI4c
オリジナルレコーディング・バージョンです。
ああ、やっぱこれはこれで上がるなあ。
分かりますかね?英国のミュージシャンていうのは、アメリカのロックンロールとポップスを聴いて育ってるんですよ(僕の言ってることはぜんぶ受け売りですからね)。
つまりそこには、バディ・ホリーロネッツも入ってるんです。


(What's So Funny About) Peace, Love and Understanding/Elvis Costello
https://www.youtube.com/watch?v=x4IYaJCkinA
これはまあ後回しでもいいですけど、コステロ先生がニック・ロウ師匠と一緒にやってるライブで、なんか字幕ついてるから歌詞にも?!と思ったら歌詞には字幕ついてませんでした。
ただバンドの紹介はしてて、メンツがすごいんですけど(確かにこのメンツでしばらくツアー回ってたしアルバムも作ったはず)、ギターがね、ジェームス・バートン御大で、この人の何がすごいって、もうひとりのエルヴィス、キングですね、プレスリーのバンドにいた人なんですよ。
でもねー、僕ねー、へそ曲がりだから(笑)。プレスリーのギタリストっつったら、スコッティ・ムーアなんですよねー。はい横道。
この動画のバージョンは、つまりアメリカン・カントリーです。
一発目のコステロのバージョン見ましたよね?見てないと話にならないんですが、あれがこれになるんです。素晴らしいメロディと素晴らしいミュージシャンがいれば、可能性は無限にあるんですよね。


Susanna Hoffs & Matthew Sweet - (What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding (Cover)
https://www.youtube.com/watch?v=ITzj7G7qNvk
これはアレンジ自体はさほど特筆すべき点はないのですが、登場人物が割と重要です。
スザンナ・ホフスとマシュー・スイート。アイドルとヲタクですね(違う)。
スザンナはバングルスのヴォーカルですね。エターナル・フレームという永遠のラブバラードで有名ですが、僕はサイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道」という曲のロックカバーがものすごく大好きです。調べてもいいし、まあそのうちリンクアップします。
超カッコいいですよ。それと、正式にリリースされているのか不明ですが、バングルス版の「アイ・フォート・ザ・ロウ」というのがありまして、これはクラッシュのカバーが超有名な、もうクラッシュの代表曲みたいになってる曲があるんですが、それをさらにあま~くカバーしたのがYouTubeにあります。まあ、これもそのうち。
マシュー・スイートは僕と同年代ですね。オルタナティブロックの人ですけど、日本のアニメオタクで、腕にうる星やつらラムちゃんのタトゥーが入っているという筋金入りです。


The Coverups (Green Day) - Peace, Love, and Understanding (Nick Lowe cover) ? Secret Show in Albany
https://www.youtube.com/watch?v=mdTNWqk-sAU
なんとグリーンデイの去年の映像です。
そして僕はこれから以下↓の記事でYouTubeの旅に出ざる得ない。
http://amass.jp/102246/
まあ後にしますが、グリーンデイは僕にとってはラモーンズのモチベーションを落として解散に追い込んだバンドとして愛憎が入り混じったものがあるのですが。
あの人は憶えているだろうか。僕はあの人の誕生日にグリーンデイの曲を贈りました。
「あなたは僕の月の光」だと。
しかし、ビリー・ジョー少し太ったんじゃないか・・・。


「(what's so funny'bout )peace, love and understanding」リクオ with HOBO HOUSE BAND
https://www.youtube.com/watch?v=4SrMbyEv3L8
この人は知りませんでした。
出だしはちょっとあんまし好みじゃないなあと思いつつ、我慢して聴いてたら、あれ?清志郎っぽいなあと思って亜流かなと思いつつ、ギターソロのときに「きょんさん!」え?「きょうさん!」?え?どっち?Kyon?Kyonぽいな?だとしたら?と思って調べたら、普通に清志郎人脈でした。清志郎というのは忌野清志郎さんのことですけど。
僕が好きなアイドルのひとりにSAKA-SAMAのここねんという子がいて、彼女は親の影響でRCサクセションとかボ・ガンボスとかも聴くんです。僕たぶん親御さんと速攻で仲良くなれますよ。たぶん年下ですが(笑)。RCは清志郎だし、ボ・ガンボスのギタリストはKyonさんですね。清志郎いないし、ボ・ガンボスのどんとももういないけど。
まあ、僕の基準ではこのバージョンはアレンジとしてはさほど刺さるものはなかったですが、この曲を選曲して日本語詞にして歌って映像に残しているという時点でもう素晴らしい仕事としてリスペクトします。


Puddles Pity Party, VIP pre-show, Humdrum Blues, What's so Funny 'Bout Peace Love and Understanding
https://www.youtube.com/watch?v=h1wa3Nk9E-o
次はちょっとホントにファニーですよ。
白塗りのクラウンがまずブルースを唄うんです。ベガスのホテルのショーですよ?
僕はその文化は知りませんが、カジノホテルにしては静かです。想像するに割とハイソな空間じゃないかと。
そこで次に「愛と平和と相互理解」を唄うんです。このクラウン(アメリカでは有名な歌手みたいですが)、本物のバカ(すみません言葉が汚くて)かマジでパンクアティチュードなのか分かりません。アメリカ人てレーガンスプリングスティーンの曲を自分のテーマ曲にしたり、トランプがストーンズの曲を使ったりして頭悪いじゃないですか。
ただそのときに僕は音楽の凄さを知るんですよ。
中身が無くなるんです。意味が。僕は字面で歌詞を追ったから刻んでますけど、耳だけで聴いてたら日本語のロックだって意外とどうにでもなりますよ。使おうと思えばって点で。
まあアメリカ人よりはマシだと思いますけどね。
そのへんは知りたかったら、「Born In The U.S.A」の歌詞と、「共和党」、「レーガン大統領」あたりを調べるといいと思います。まあでも、絶望するだけだからやめた方がいいと思いますけどね。


Chris Cornell - peace love & understanding live
https://www.youtube.com/watch?v=A_avYZbrNuk
絶望でつなげたくなかったけど。
クリスのこの弾き語りは刺さりますね。
コステロ先生は他の曲とか聴いていくと本当に声が素敵だし歌が上手いんですけど、クリスのこの声どうですか。旨味がたっぷり。これが歌というものですよね。
彼はもうこの世にいないんですよ。2年ぐらい経ちますかね。
もう更新されないんですよ。
残念ですよね。


Elvis Costello with Eddie Vedder - (What's So Funny 'Bout) Peace, Love And Understanding
https://www.youtube.com/watch?v=RhswwmvoHoQ
最後にしますが、これは3年前の動画だそうです。
老けましたねえ先生も、そしてエディ・ベイダーも。
エディはパールジャムというバンドのヴォーカルでしてね。グランジですよ。ニルヴァーナの敵役です。日本ではグランジのアイコンはニルヴァーナですが、アメリカではパールジャムの方が人気があったそうです。僕はグランジは表面掬っただけなんでね。
たとえば直前に紹介したクリス・コーネルサウンドガーデンのヴォーカルでしたね。
そのあたりが90年代から00年代頭ぐらいに活躍してて、まあ行ってしまった人もいますが、ベイダーみたいに生き残って、コステロ先生とこうして公園で歌ったりするんですよ。
動画自体はファンカムなのでちょっと見苦しいですが、どうですかこのハーモニー。グランジって意外と音楽耐性は強かったんですよね。70年代のパンクは楽器が弾けなくても出来ましたけど、グランジとかオルタナティブはちゃんと技術があった上での革新でしたからね。だから僕は嫌いなんだ(笑)。
コステロ先生は太ってハゲたけど、ベイダーは痩せてカッコいいおっさんになったな。

 

以上です。


すみませ~ん。押し売りすごくて(笑)。

 

「それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」 ケント・M・キース

 

2008年8月24日にどこかに書きました。

 


更新されるたびに必ず読むブログのひとつに「極〇ブログ」がある。
話題はそのとき様々だが、あるとき書評で『それでもなお、人を愛しなさい 人生の意味を見つけるための逆説の10カ条(ケント・M・キース)』が紹介された。

極〇ブログの中の人によると、

エッセンスがすでに10カ条にうまくまとめられているなら、それをたぶん薄めたようなご教訓の本など読むことはないのではないかと思った。それに高校生に毛が生えたくらいの青年の詩にそれほど意味を求めるべきでもないのではないかと思った。でも、なんか自分にも奇妙な巡り合わせのようなものをスピリチュアルというか感じたので読んでみた。読んで良かった。読みながらなんども泣いてしまった。

と、書いてあり、心を動かされたので本書を買うことにした。

ふだん、「404~」などの書評ブログ、または贔屓にしている日記ブログで本が紹介されているときなど、それら記事を積極的に読むが、紹介されている本をじっさいに買うことは、読んで関心をもった書評の数に比べて圧倒的に少ない。興味深く書評を読んだわりには、後刻忘れてしまったり、書評そのもので満足してしまったりするからだ。

しかしこの本は買うことにした、というのは、”逆説の十戒”という詩の内容が(先に引用した極〇ブログの書評文の一部「奇妙な巡り合わせのようなもの」という文章とともに)、自分にも奇妙な巡り合わせのようなものを、タイミングを感じたからだ。

後日、恵比寿の駅ビルの本屋さんで尋ねるとスピリチュアルのコーナーに案内された。これはやっぱりスピリチュアルなのか・・・、と少し購入意欲が翳った(いやまぁいまさらスピリチュアルかあ、という感じを持ってしまったのだ)が、人を啓蒙する手法で今もっとも人々に支持され易いスタイルがスピリチュアルだったりするので、本としての種類、書店としての分類は分類、棚は棚、中身は中身、として受け入れることにした(件の書評にも紹介文にスピリチュアルの単語が出てきてるし)。

読んだ。
正直にいうと、本書全体として、前述した極〇ブログの中の人ほどには感動をおぼえなかった。氏は確かキリスト教の洗礼を受けたことがあったか、若しくはキリスト教に対して造詣が深い、近しい関係だったと思ったのだが、おそらくその”傾向”が氏の書評(感想)をアンプリファイドしたのかもしれない。と、俺は感じてしまった程度、本書を包むキリスト教の”オーラ”が自分にとってはひねくれた反射を呼び起こしたのかもしれない。浅はかにいうならば宗教臭が少し鼻についたのだ。
(※宗教に対する偏見だと理性では分かっている)

”それでもなお、”この本が俺の手元にあることはひとつの悦びだ。
”逆説の十戒”自体があまりにも魅力的だし、本書の内容も、思い出したときパラパラとめくるだけでなんとなく気持ちの波が前向きになる。第一部「おかしな世界」は特に気に入っている。こんな感じだ。

確かに、この世界は狂っています。あなたにとってこの世界が意味をなさないと言うのなら、それはあなたの言うとおりです。この世界はまったく意味をなしていません。
しかし、あなた自身は意味をなすことが可能なのです。あなた自身は一人の人間として意味を発見できるのです。それがこの本のポイントです。これは、狂った世界の中にあって人間としての意味を見つけることについての本です。
(ケント・M・キース)

俺はこの本を、この本の主題である”逆説の十戒”を読むたびに、自己肯定と自己否定と自己満足と不満、不安、希望が混ざり合った感情が揺さぶられて、それでもなお、”anyway”が活力を蘇らせる。

「逆説の十戒」で検索すれば、他にも広まっている別訳がいくつか存在しているのを見つけられるはずだ。
極〇ブログに挙げられている訳と本書「それでもなお、人を愛しなさい」の大内博氏訳を混ぜたりしてアレンジし、俺は自分用の訳を作った。それを下に置いておきます。

逆説の十戒

People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway.
人は論理的でも合理的でもなく自己中心的なものだ。それでもなお、人を愛しなさい。

If you do good, people will accuse you of selfish, ulterior motives. Do good anyway.
良いことをしても、人は何か下心があるのではないかと非難する。それでもなお、良いことをしなさい。

If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway.
成功すると、うその友人と本物の敵を得る。それでもなお、成功しなさい。

The good you do today, will be forgotten tomorrow. Do good anyway.
あなたがする今日の良いことは明日には忘れられる。それでもなお、良いことをしなさい。

Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway.
正直と率直さはあなたを弱い人にする。それでもなお、正直で率直にありなさい。

The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway.
最大の考えを持つ最も大きい男と女は、最も狭い心で最も小さな考えを持った男と女によって撃ち落とされる。それでもなお、大きな考えを持ちなさい。

People favor underdogs, but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway.
人は敗者に同情しても勝者に追従するものだ。それでもなお、少数派のために戦いなさい。

What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway.
何年も掛けて築き上げたものが一晩で壊される。それでもなお、築き上げなさい。

People really need help, but may attack you if you do help them. Help people anyway.
人々は、本当に助けを必要としているのに、彼らを助ければ非難されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

Give the world the best you have and you’ll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway.
世界にとって最善を尽くしても、あなたは酷い目に合う。それでもなお、世界に最善を尽くしなさい。

 

 

 

 

 

 

2019年現在


それでもなお、悪くない。

もう既にこの本は手元にない。
このテキストがあれば充分だ。

何が出自か誰が言ったかはどうでもいいだろう。
ただここに並べられた言葉に感応するかどうかだけ。欺瞞かなと思えばそれまで。自己満足だなと思えばそれまで。

俺は「やっぱり悪くないな」と思った。

ここに書いておいて、たまには見返してみたい。
忘れないでおこう。

 

SKIP

 

今日はとびっきりのエピソードだ。


仕事で下手打ったけどどーでもいい。


地元駅へ向かう乗り換えで階段を上っていたら女子中学生が追い抜いて行った。
階段を上り切ったとき、目の前でそのJCが手をヒラヒラと踊らせながらまさしく弧を描きスキップして走り去って行くのを目撃した。


ああ、この世界もまだ捨てたもんじゃないなって思ったね。


実はそのJC、乗り換える前の電車の中で既に見ていた。
いや、通報するなよ?(笑)
たまたま座ったすぐ斜め前で男子と二人で立ってたんだ。
俺は若いカップルを観察するのが大好きだ。だってさ、そこには健全で純粋な欲望しかないじゃん?この人と一緒にいたい。この人と一緒にいると楽しい。それが全身から溢れ出てるんだ。
二人を見るんだぜ?女子を見てるわけじゃない。何を話してるのかまでは聞こえない。ただとにかく楽しそうなんだ。別に笑い転げてるわけじゃない。大声上げてるわけじゃない。うっとり上気してるわけでもない。二人のために世界があるのが分かるんだ。
羨ましいかって?そりゃ違う。ノスタルジーとも違う。俺は他人の幸福が大好きなんだ。
成功とか金とかはどうでもいい。これこそ愛だよ。純粋な一瞬だよ。その瞬間しかない。明日はもう変わってるかもしれない。でも今、確かに彼らは幸せに違いない。
それが見れたとき俺も幸せだ。
信じられる。

「じゃあ、今日はさようなら」という彼女の声は聞こえた。
俺も降りる駅だったので、先に急いで降りた。
混雑を縫って足早に乗り換え先へ向かい、階段を上っていくと、さっきの彼女が俺を追い抜いて行った。


ありゃ、俺と同じ路線か!と思って階段を上り切ったら、彼女は弧を描きながら、手をヒラヒラさせて、まるで踊るようにスキップし、そして改札を抜けて行くのが見えた。

ああ、天使がいたよ、と思ったね。


よほど楽しかったんだろうな。希望だろ。生きる希望。未来。明日だ。俺に明日を見せてくれた。世界最高じゃん!!
ワクワクしたね。素敵だなって。
世界あった。


別の車両に乗ったんだけど、同じ駅で降りちゃったからビビった。
やべえと思ったけど彼女は右に曲がって、俺は気を付けて真っ直ぐ行ったので終わりになったから良かった(笑)。


とにかく、世界は素晴らしい。


今日は良い事しかなかった。

 

 

人間と犬との共生

 

先に書いておくと、この記録はスマホ画面で読むのは大変かも。
でもですね、昔は真面目なことも考えてたってことで。
これは以前、犬飼いだった頃に開いていたwebサイトの記事の抜粋です。

 

 

 


///// 2003.08
人間と犬との共生

犬飼いとして都市で暮らす基本スタンスみたいなものを改めて考えてみました。 あくまで個人的な考えです。一応、このメモページで 「ペット」 に関する話題、ニュースを 採り上げたりしているので、編者の立ち位置を少し説明しておかなければならないかと思ったので、何とか言葉に してみました。
私はこう考えている、皆さんも犬飼いとしてのスタンスを考えるのも悪くないのでは?


元気でいてくれればいいとか、言わずもがななことは別として、社会的な側面で僕が 「自分の犬」 に求めるのは ”行儀が良いこと” です。 何をもって ”行儀が良い” と定めるかは議論のあるところですから、言い換えると ”飼い主である自分が、自分の都合で制御できること” を 求めたと思って下さい。あくまで僕の犬の話ですからね。

何故、行儀が良いこと (制御できること) を求めているかというと、人間社会で犬が行動するために=自分が自分の犬と都会で暮らす上で、 必要だと感じているからです。
何故、必要かと思っているかはおいおい説明します。

ときどき、 「ウチは犬に自由にさせている」 という犬飼いもいます。たぶん、僕が求めている ”行儀の良さ” と基本的に同じはずです。 「自由にさせている」 といっても野に放っているわけではないのですから、人間社会のルールを守っているのでしょう。そうでなければ排除されます。
人を噛まないし、吠えないし、壊してはいけない物を壊したり、どっかに逃げて行ったりしないわけです。

そういう意味では、僕が 「自分の犬」 に求めた考え方の規範になっているフランスの犬たちは、実に ”自由” にしております。 そして驚くほど ”行儀が良い” のです。もちろん、そうでない犬もいますが、フランスの犬は概ね ”自由” で ”行儀が良い” ように見えます。


具体的に、何が自由だと思っているかというと、一つにはフランスはノーリードの犬が日本より多いことです。コレ自由でしょ?
出入りできる場所が多いことにも自由を感じます。お店やレストランに気兼ねなく犬を連れて行くことができるので、留守番させずに、 様々な場所へ連れて行くことができます。だからといって大型犬がバスに乗ってたりはしないんですがね。そのへんはバランスです、バランス。 自由と野放図は違いますから。
お分かりかと思いますが、 ”自由” といっても、犬が自由なのではなく、犬飼いが自由なのですね。犬飼いにとって不自由なことが 日本より少ない、ということです。決して本来の意味での自由ではありません。
都会で暮らす犬飼いの自由、という意味ですね。自分に都合が良いということ。
そして、犬飼いの自由が、 (人間社会で暮らす) 犬にとっての自由でもある。
という前提で許してね。先進まないから(汗)。

何故、そのように ”自由” なのかと考えると、フランス人の気質である 「何が悪い?」 という考え方もあるでしょうが、 基本的に犬たちの ”行儀が良い” からだと思われます。
ノーリードの犬は (言っとくけどたくさんいるわけじゃないからね) 、まずほとんど飼い主の側を離れません。 ごくまれに、一人で散歩している犬も見かけますが、その場合はほぼ確実に周囲の人間や犬に対して興味を持ちません。 時折、挨拶の匂い嗅ぎに近づいてくる犬もいますが、一瞬で去ります。「よぅ。オマエだれ?んじゃ」みたいな感じです。 「ふーん」もナシですよ。
ですから、犬同士が絡んでいること自体が少ないのです。飼い主のことだけを見ている犬か、自分の世界に浸っている ようにしか見えない犬がほとんどです。
僕 (人間) が渋谷駅ですれ違う人といちいち挨拶しないのと一緒。一緒?

これはあくまで私見 (まぁ上から下まで私見なんだけどさぁ) ですが、日本の場合 「犬が楽しめる手段の一つとして、他の犬と 接触する (遊ぶ) ことを積極的に行なう」 という考え方が一般的なのに対して、フランスの犬 (およびフランス人) はそのような 考えを全く持っていないような気がしました。
先に説明したように、飼い主も連れず散歩をしている犬でさえ寄って来ないのです。街中だろうが、公園だろうが、犬同士が 遊んでいる (接触している) 場面もほとんどありません。犬連れと犬連れはただすれ違うだけなのです。
どちらが正しいかとかいう話ではない、ということを断っておきます。

*ただし、同犬種の場合は例外かもしれません。仏ブルの場合は人間同士挨拶します。特にウチの場合、仔犬だったので よく声を掛けられました。

長々と外国の状況を書きましたが、別にフランスを礼賛するつもりはありません。全ての犬が幸せかどうかは分からないし、 トラブルもあります。欧米型が進んでいるとかいうつもりはありません。そういう社会もあり、こういう社会もあり、僕個人は、 自分が犬と暮らす場合に、どのようにしていくか、ということを考えたということです。


僕が子供の頃、日本にゴールデン・レトリーバーはいませんでした (うそ)。
ずっと、犬は外で飼うものであり、散歩は引っ張ったり引っ張られたりしながら行なうと思っていました。時代が流れ、 ブームが来ては去り、様々な洋犬種が輸入されはじめると、欧米型の犬飼いスタイルも日本にやってきました。
僕はずっと家族で社宅暮らしだったので、犬を飼うということは考えもしませんでしたが、一人暮らしを始めてから、 そうですなぁ、今から10以上前に一度、本気で犬を飼おうと思ったことがありました。
当時屋内飼育できる犬はトイ・プードルマルチーズシー・ズーダックスフントしかいませんでした (うそ)。
会社の移転とともに部屋探しをしていたとき、希望に 「ペットの飼育可能」 という条件も入れていました。 見つかったんですよ。折り合いのつく物件が。夢、見ました。ほわわわわ~ん。
でも、夢とあきらめました。仕事をしながら一人で犬の面倒はやっぱ見れない。

と、いうような思い出を語るためにページを割いているわけではないのですが、いろいろと想念が浮かんでくるんですよ。
とにかく、日本での犬の飼育に関して、昔と今では大きく変わった 部分もある、ということを言いたかったのです。


で、時が経ち、外国暮らしの中で、僕は 「自分の犬とどのように暮らしていくか」 ということを決めていったわけです。
この姿勢は人それぞれ違いますし、時代や環境によっても変わっていきます。

現在、僕は犬飼いになり、自分の犬に対して、 ”行儀が良い” ことを要求しています。
いかなるときも 行儀良くしてろと言ってるわけじゃないのですよ。
ウチの犬は 「行儀が良いですね (おとなしいですねぇ)」 と言われることが多いのですが、それはどういう状態かというと、 飛びついたりすることが少なく、吠えないからであり、むやみに動き回らない (ように見える) 、落ちついている (ように見える) から なのですが、それは制御されているからです。
いや、本気で褒められてるとは思ってませんよ。お世辞で言ってもらってるって分かってます。
つまりまぁ、その程度のことです、ということです。

そのように 「しつけ」 をしたので、完璧とは言い難いですが、落ちついているように見えます。もっと厳密にいうなら、 落ちついているように見えるときもあります。
何故、落ちついてる=行儀が良い、ということを求めているかというと、必要だと感じているからだと最初に書きました。 それではさらに、何故必要だと感じているかを書きます。


躾とは結局のところ、犬の社会化、それとコミュニケーションですよね。
これは飼い主と犬とのプリヴェな関係だけではなく、犬が人間社会で生きて行くために、世間のルールを教えるということ であります。押し付けるわけですけどね。
でもって、社会ってものは不確かなものでありますので、時代によって変わるし、日本と外国では置かれている立場も変わってくる。 日本国内でも、どんな地域なのか?どんな住環境なのか?それは様々ですので、その環境に合った躾が必要になってくる。 だから一概にアレはイイ、コレはダメってわけにいかないだろうな、と思っています。

やり方、躾け方にも違いがあります。
ウチはこれでOKでした、何でそっちはダメなの?
って当たり前にダメに決まってますよね。
双子だって性格違うんだから。同じ教育を受けたら同じ人間が出来上がんのかよ、オマエSFか?みたいな(意味不明)。
だから 「本の通りにやったけどダメだったからダメ」 って言ってる人間がダメ。
もちろん、本や経験者の意見などを大いに参考にするんですが、性格や体格によって、躾け方は千差万別ですよね。
このページを読んでいる方は百も承知と思いますが、そのような当たり前のことを分からない人も少なくありません。 そういったニンゲンが、問題犬を作り出し、保健所を機能させ、不幸な社会を作っているのです。


僕はゴリラに育てられたわけじゃありません。
人間の母親と父親、地域社会に育てられて、やっと人間らしく振舞えるようになったのです。

制御=躾=社会化=コミュニケーションは、「自分の犬を他者から守るため」 に必要なことなのです。
そりゃ何から何まで好き勝手にやらせたいと思いますけどね。でもそれで誰かが迷惑を被っていて、憎しみを持つかもしれないことを 忘れてはいけません。

最近ではS.A.R.S騒ぎで犬猫が無残に殺されました。
一旦、人類にとって損害をもたらすとされた場合、個々の性質はともかく、それというだけで処分されていくのです。
S.A.R.Sの例は極端だとしても、たった何人かのニンゲンが飼い犬の糞を放置したせいで (あるいは単なる気狂いのイタズラで) 毒物が撒かれたり、矢を射られたり、身近に、実際に危険は常にあります。
だからそういった危険から身を守るために至極常識的な範囲で僕たちは犬の自由を限定しなくてはなりません。それは 僕たち飼い主の都合だけではなく、犬を憎んでいる人からの防御、犬を飼っていない人たちへの配慮を含むわけです。

他者から守るために一番簡単なのは他者に迷惑を掛けないということです。これもまた生活環境によって左右される事柄 ですが、最低限人間社会で共生していくには 「むやみに吠えさせない」 「噛ませない」 プラス飼い主は 「排泄物を始末する」 を守ればよいと僕は考えています。

極端な話、家の中ではモノは壊すし家族は噛むし、トイレは全くおぼえない。それなのに外へ出掛けると愛想が良くて人に撫でられると尻尾を振る。後は、飼い主がcacaを拾って帰れば最高の犬と誉れ高いわけです。

最近は洋犬種のブームとともにコンパニオンとしての犬との付き合い方に関する情報も入ってきていますから、 昔みたいに、社会化のチャンスを与えられずに神経症になってしまっている犬 ---飼い主は 「甘やかされてるから王様気分なの」 とか、 「ごめんなさいねぇ。ウチのコは自分のこと犬だと思ってないの」 とか、「気が強くてねぇ」などと言う場合が多い--- とか、庭の隅に 繋がれて吠えまくっている悲惨な状況の犬とかは相対的に減少傾向にあると思いますが (願望) 、まだ「自分の躾が出来てない ニンゲン」は多く存在しています。
ようするに、本来の 「躾」 の必要性を感じていないと思われる人が多いのです。
トイレの躾はベツモノです。もっと大事なこと。

とあるカフェでの出来事。
父母娘と思われる3人連れ+小型犬。
椅子の上に置かれている犬が、近くを人が通るたびに吠えかかる。父親がそのたびに犬を叱るが、犬は言うことを聞かない。
挙句、娘は 「ちょっとぉ!いっつも何もしないくせに何で急に怒るのよ!やめてよ!」 と父親をなじった。
俺がミルコ・クロコップなら娘のテンプルにハイキックをお見舞いしてやるところだ。なじられた父親は黙ってしまったそうだ。僕は ミルコでもないし、その場に居なかったので、ハイキックはお見舞いできませんでした。

吠える犬がダメだとは言いません。
吠えさせてはいけない場所で吠えさせてはならない、という、いちいち書くまでもないことを書いててアホみたいです、ボク。
僕は公共の場すべてに犬連れで行けることを望んでいます。行くか行かないかは犬飼いの自由であるべきだと思っています。
犬が嫌いな人、犬が怖い人に対する配慮はどうなんだ?と言われても、そうなると道路さえ歩けなくなります。犬嫌いが優先されて 犬飼いが遠慮しなければならない理由はありません。同時に犬飼いの権利だけを優先させるつもりは当然ながらありません。
犬が怖い人に対する配慮も基本的に同じです。人に危害を加える犬は都市生活に向きませんが、危害を加える犬ばかりではありません。

常識 (常識の違う人もいるので、この言葉は難しいですが) 的な犬飼いなら、すれ違う人に犬をけしかけたりしないし、社会化を済ませている犬なら、むやみに人に飛び掛りません。怖がることはないし、遠く離れた犬すら怖くて仕方の ない人は、その恐怖心を克服するべきです。 子供の頃、犬に襲われて死にそうになった、とします。その犬、その個体に対して恐怖心があって近づけない、のは分かります。 でも、その犬とこの犬は違うわけですから。犬の前提が 「危ない」 とか 「汚い」 とか、おかしいですよ。 犬とすら共生できない人間社会なんておかしいと思ってます。 「躾けられていない犬は嫌いだ」 とか、 「噛みついてくる犬は怖い」 のは当たり前です。そのような犬にならないように、 犬飼いは躾を施しているわけですから、僕らはどんどん活動の場を広げてもいいわけです。 ただし、例えばマーキングを店の中でしてはいけないわけです。そのような心配があれば、そうならないように抱いているとか、 はなから連れて行かないとかすればいいわけです。ウチはあまり心配ないので歩かせます。あまりにも長時間だったりすると心配なので抱いたりします。荷物が多くなりそうな買い物の場合は留守番させます。 なんか別に変な話じゃないと思うんだけどなあ。 僕は 「犬が嫌い」 という理由で犬を排除したいと思う人間の意見には何一つ同意できません。 犬が嫌いな人に遠慮するつもりは全くありません。ただし、無用のトラブルを避けるために配慮しているだけです。

2003.08.16 追記
誤解のないよう念のため重ねていいますけど、噛んだって仕方ねーよとは言ってませんからね。手を出すほうが悪い、ということではありません。
飼い主が、 「犬だって急に手を出されたら驚くということを認識しなければならない」 ということを、他人に対して強制することはできません。
ただし、僕は 「噛み癖がある犬」 であっても人間と共生できると思っています。もちろん、他者を攻撃することを目的に躾けられた犬が 街に出ることは許されません。当然です。
とにかく、全ての犬飼いは必要な躾 (社会化、コミュニケーション) を続けるべきだし、自分の犬の性質にあった行動を取れば何ら 遠慮すべきでないと思っています。レストランでもデパートでも気兼ねなく犬連れで入れればいいし、電車でもバスでも乗ってもいいと 思ってます。


某日 /////
個人的に躾 (トレーニング、社会化) はコミュニケーションだと思っています。 「話の出来る仲になる」 ってことですね。
しつけトレーニングとは我々人間と犬とが幸せに共存していく上で必要不可欠なことであり、 お互いが理解しあうことなのです。犬に我々人間社会で暮らすことを強いている以上、人間社会のルールを教えてあげな ければなりません。
何もわからない相手(犬)に厳しくトレーニングをする必要はありません。相手が落ち着いて 理解出来るようなステップで進めてあげてください。落ち着いた状態でトレーニングが出来なければ、相手は教えられた ものを吸収出来ないばかりではなく“拒絶”してしまうのです。人間も最初から厳しくビシバシと教えられるものに対しては、 自ら学ぼうという気持ちの前に“恐怖”や“拒絶”といった状態に陥るのです。これではお互いが空回りするばかりです。
朝日新聞のWEBサイトで連載されている「犬との楽しい生活」という特集から引用しました。

確かこの連載にも書いてあったと思いますが、躾は成犬になってからも出来ます。コミュニケーションにゴールは無いですよね。だから失敗もないと思うんだな。相互理解に到達するまでに上手く行かないこともあるでしょうが、で、1歳になったからもうダメ、失敗で終わり、みたいなそういう話じゃないってことッス。
何歳になろうが、僕らは犬とコミュニケーションを取るわけです。当たり前ですよね。そのために来てもらったんだから。
言うことを聞かせた、命令に従ったから喜んでるんじゃないんです、言うことを分かってくれたときめちゃくちゃ嬉しいんです。
だから人間側も、犬の言うことを分からなければならない。そのために共通言語を持たねばならない。それが躾ですよね。 どのように躾たらいいのか?それは全世界の犬飼いの悩みであり楽しみです。
犬を好きで本当に良かった!こんな楽しい人生はない!!

某日 /////

最近、keyさんの日記とか読んでて、アメリカと日本の犬飼いシーン違い、犬君たち(飼い主のニンゲンじゃなくてね)の 置かれている状況の違いに暗澹たる思いを感じていたりするんですがね。

海外事情を知ると、日本の犬たち (特に街暮らし)の暮らしづらさばかり感じてしまう僕なんですが、ペット先進国っての は犬飼いたちが義務を果たしてきて得た権利なんですよね。単に犬が好きとか、動物愛護が浸透しているとか、 そーゆーことでもない。ルールの遵守なのかと。それを置いてけぼりにしてしまうんだな、つい。

結論はいつも同じなんだけど、犬飼いがしっかりと社会性を身につけて、自分の犬だけの権利を求めず、全ての犬君たちに責任を持つ、っつーか、持たざるを得ない時代になるんじゃないかと思う。
僕らが意識をもっと高く、広く持っていけば、犬たちはもっと暮らしやすくなるはずなんですよね。
不幸な犬たちを減らすために、幸せな犬飼いが考えなければいけないことってまだまだたくさんあるなって感じです。 なんかさ、全ての犬に責任持つってのは大袈裟な話だけど、自分の犬はきちんとコントロールして、置き土産は残さず、 公衆の面前では行儀よくするっていう当たり前のことをこれからも努力する、と。
それだけなんだよね。キチンとやってればさ、誰からも文句言われる筋合いはないわけ。本来は。ところが、どこかの誰かの犬が人を噛んだとか、ギャンギャン吠えたとか、排泄物を放置していったとか、コッチはちゃんと暮らしていても 他の犬飼いがそんなふうだと全ての犬飼いが白い目で見られるんですよね。一緒くたにされる。
そして、いろんな場所が出入禁止になり、規制、排斥が始まるんですよ。
だからね、うーん、と。まぁ僕も常にそんなこと考えてないし、実際ぜんぜん立派な飼い主とは言えないのですが、 自分の犬がですね、「カワイイ~、こんな犬を飼いた~い」と思われるより「こんなふうに行儀の良いコに育てたい!」 と憧れてくれるような対象にならなければならない、なんて・・・・あはは。いやー、そこまで責任ねーか!

最近、仏ブル(あるいはボストン)、ブルテリアなんかが広告に多く使われてて「犬と暮らすライフスタイル」的なものが ”充実した人生”、”幸せな家庭” の必須条件みたいに謳われているような気がするんです。
「我が家には犬がいます。オシャレで幸せ♪」みたいな。
仕事しに電車乗って渋谷駅で降りると、上着の前開きや肩から下げてるバッグの中から可愛いチワワ君たちが顔を 出してたりしてね。いやまぁそれ自体に文句ないんだけどさ、なんか 「大丈夫なのかな?いろいろ」 って思ってしまうの ですよ。
今一度、自分に問いたいんですよ。
「俺は、俺が幸せでいるために犬を飼ってるんじゃないか?」 と。
だけど僕は「犬がハッピーじゃなかったら俺がハッピーじゃない。だから俺はバクティが幸せあるように もろもろやってんだ」と、思うんですよ。なんつーかこう、手のひらに汗かいたり、涙ぐんだりして。なんでだよ。
あ、なんか俺、青いかも!(笑)

食餌について
ウチは基本的にドライタイプのドッグフードを与えています。
ドッグフードの危険性を訴える情報もたくさん入っていますが、僕はドッグフードが100%悪いものとは思っていません。
何度か手作り食に変更したこともありますが、食物の内容で犬に変化が出たとは認識していないので、手軽という点でドライフードを採用しています。良し悪しのバランスの問題です。
何が優先されるのか。リスクがどの程度で、リターンはどの程度なのか。そういったことを鑑みて、今はドライフードを与えております。時々、「(昔の、という形容詞がつくことが多い)犬なんて残飯でいいんだ。残りメシで15年(18年でも何年でもいい)生きた」という話を聞きますが、そのような丈夫な犬は、良質のドライフードならもっともっと長く生きたんじゃないか、と僕なんかは思ってしまいます。
今は塩分や糖分など、人間と同じように摂取していると長生きできない、という説が主流ですが、僕はそれを信じています。なので、加工品は犬用に作られたもの以外、与えていません。豆腐、おから、等は時々与えています。むろん、味付けのされていない肉野菜などを与えることもあります。加工品はドライフードか犬用のビスケット的なものだけです。果物も果糖の摂り過ぎは犬の身体に負担になるので、ほとんど与えません。
「手作り食にしてから病気が治った」という話も時々聞きます。
結論をいうと、ウチの犬は皮膚疾患がありますが、手作り食にしても治りませんでした。獣医師の指示によりカンガルーの肉とジャガイモのみの食餌を半年続けましたが、皮膚疾患には何ら影響はありませんでした。もちろん、もしかしたら別の素材を与えれば違っていたかもしれません。ただ僕は獣医師による食餌性アレルギーではない、という診断結果を尊重しています。良くもならなかったし、今までも食餌によって体調の変化が見られたのは、盗み食いで食べてはいけないものを食べたときだけです。とほほ。
つまり、ドライフードであるリスクは低いということです。
ではプラスの面での手作り食に関しても、何をプラスとするか、という点であまり魅力的な面がないので、リスクの低いと思われるドライフードを採用しているわけです。
「人はカロリーメイトだけで生きていけるのか?」という意見もありますが、少なくともウチの犬はフードの内容によって何か大きな変化が見られたことはありません。いつもいつもボウルにフードが盛られると、我慢できないといった顔で、食べるのを許可されることを待ちます。
食餌内容での影響でいうと、一度だけありました。鶏肉です。
食餌性アレルギーかどうかを調べるために、最初は鶏肉とジャガイモのみの食餌に切りかえました。もちろん骨は与えていません。身の部分だけ、煮たものを毎日与えていました。1週間経つと散歩のときに何となく元気がないように見えてきました。
獣医師に報告すると、鶏肉の成分でそういった症状が出る犬もいるとのことで、鶏肉を使った食餌制限プログラムは中止になりました。手作り食に鶏肉は主たる素材の一つですが、それはかまわないと思います。手作り食は栄養バランスを組み立てられれば問題のない食餌になると思います。
問題は、人間が食べるために加工(味付け)された食品を犬に与えているニンゲンです。「ドッグフードだけなんて可哀想だ」、「短い一生なんだから美味しいものを与えてあげたい」という話を時々聞きます。
先ほどから書いているように、短い一生だから何年か縮まっても良いと思っている飼い主に飼われている犬は悲惨です。人間よりも体重が少なく、臓器の機能も違う生き物が、糖分や塩分の多いものを与え続けられた場合、最終的にどうなってしまうのか考えると恐ろしいです。
与えている食餌の量を考えると、1個のクッキーや、スプーン1杯分のアイスクリーム、ひとかけらのチョコレートなどが、人間でいうとどのくらいの量に相当するのか?成分がどのような作用を身体に与えるのか?一生は短くされ、晩年は病気で苦しみながら死んでいくかもしれません。
人間に比べ短い一生だとしても、健康に気遣い、ストレスの少ない楽しい日々をなるべく長く長く送ってもらうことが犬と一緒に暮らすということではないかと思います。
ほとんど全ての犬飼いがそう願っていると思いますが、そう思うなら人間用に作られた加工品を与えるのをやめたほうがいいと僕は思っています。
なので、僕は一切与えません。

 

 以上です。

 

ちなみに僕はもう二度と犬を飼う自信がありません。

 

 

バスケット 1984年

 

過去の「記録」です。

 

 

16歳の初夏。
見た感じは、
色が透き通るように白くてさ、髪はハネさせて短くて明るい色。
まつげがクリンとカールしててパッチリした瞳の目尻がキュっと上がってる。それでちっちゃな唇がぷっくりしてて真っ赤なもんだからもう釘付けって感じで。
ただ声はあまりよくなかったな。そんでもって性格もちょっとキツかった。
でもツンと上を向いた小さな鼻なんか赤ちゃんみたいに可愛らしくて睨まれると嬉しくなっちゃうようなコだったよ。
つきあった期間はすごく短くって最後はケンカ別れだったんだけど、今でももったいないことしたなーって思う。


同じクラスじゃなかったので接点はゼロ。
ある日、俺が部活を終えて体育館の奥にある部室からフロアを横切っていたら、目の前にバスケットボールが転がってきた。転がってきたほうを見ると色白の肌を紅潮させた女のコが立ってる。そんときちょっと不思議だったのは体育館の中には二人しかいなかったんだよ。俺と彼女だけ。
彼女はバスケ部で俺はボクシング部だった。
俺たちの部は大概他の部の連中が帰っちゃった後に帰るんだけど、そのときの彼女は残って自主連してたらしい。で、俺は俺で後始末が長引いて一人部室に残されてたってわけだ。


俺は肩に掛けてた荷物をばらばらと床に落として、前に転がってたボールを拾い上げてぽんぽん床につきながら彼女の方へ歩いていった。
で、彼女の前に来たときにスッと腰を下げてオフェンスの姿勢をしたら、彼女のほうもサッとディフェンスの姿勢になった。俺はニヤニヤしてたんだけど彼女はすっごい怖い顔してたね。そこで俺は(今はもう全然できないけど)背中からクルっとボールをまわしてターンして彼女をかわしシュートを決めてやった。ホントだぜ。俺は中学生のときバスケ部だったのさ。背が伸びなくてね~。
そんで、「わはははは。またねー」とか言ってカッコよく走り去って行った(つもり)。


それから2週間ほど俺は部活をサボってた。理由は飽きたから。なんつーか運動部マジでやるとかアレじゃね?って感じというかなんというか。
あるとき、昼休み時間に学校の敷地内にある寮の友達の部屋で一服つけて帰ってきた俺をなんと彼女が待ち構えていた。


「あんたっ、なんで部活出ないの?!」ほとんど仁王立ち状態だったぜ。
「ええええ?い、いやあ…。なんか面白くないからもう辞めちゃおうっかなー?、なんてー」とかシドロモドロで答えたりして。
「勝手にシュートして来なくなるなんて卑怯じゃない?!」
え?ええー?!と、思ったよね。
俺はそこで 「私ともう一度勝負しなさいよっ!」 って言われるんだと思ってすっげーおかしくなっちゃってさ。ゲラゲラ笑ってたら彼女は顔を真っ赤にして 「最低っ!!」 とか言って去ってった。


だから、俺はキャプテンと顧問の先生に詫び入れてイチから部活やり直したんだよ。
っていう理由はウソで、実は来るべき校内イベント(文化祭のライトバージョンみたいなやつ)の準備のとき、部活をサボってる生徒は敷地内の草むしりをさせられる罰があって、その名簿に俺が載ってるのをその日知ってしまったからなのだな(他にも幽霊部員はたくさんいるのに、ウチの部はなぜか俺だけだった!)。草むしりなんてやってられっかよ、とか思ってたし、色白美人に卑怯者と呼ばれたもんだからこれを機会に復活することにしたのさ。


で、それからはけっこうマジメにやった。
ボクシング部は弱小クラブでね。いっつも出てきてマジメにやってんのは5人くらいで、リングなんて当然無いから体育館の隅っこにサンドバッグ立てて、みんな壁に向かってちまちまやってんだよ。
俺たちが使ってた第一体育館はバスケットのコートでいうと2面あって、隣は女子バスケ部が使ってる。俺たちはステージに近い方(奥)で、そこは確か体操部とバドミントン部と共有で、設備もないし人数も少ない俺たちの部は隅っこが割り当て場所。
そんで終わりの時間が近づいて他の部が引き上げたら場所を広げて簡単なスパーしたり走ったり縄跳びとかうさぎ跳び的なことを最後にするのさ。
もう暑い季節だっつーのに長袖ジャージ上下の上にウィンドブレーカまで着込んだりしてさ。ま。気分だけだけどね。部活はマジメにやればそれなりに楽しいもので、夢中になって1ヶ月すぎた。


いつからそうしてたのか知らないんだけど、あるとき俺たちが最後のトレーニングしてるときに出入り口でこっちを見てる制服姿の彼女を見つけた。
彼女はしばらくこっちを眺めてる感じで、俺たちがクールダウンのストレッチやって床の掃除をして奥の部室に引っ込んで、クサイ用具の手入れして先輩から説教されて、着替えて出てくるときにはもう居ない。
そういう彼女の姿を何日か見かけた。
ストレッチしながら「あのコなにをしてんのかな~?」と思ってた。そりゃちょっとはね、もしかして俺のことを見てんのかな~?とは考えてたよ。


ある日の放課後、これから部活ってんで体育館に入ると、既にユニフォームに着替えてバッシューの紐を結んでる彼女のそばを通りかかった。
そこで、通りすがりながら少し前かがみになって、彼女の耳元に「今日、勝負してやるよ」って小声で言いながら去ってってやったのさ。
もちろん勝負する気なんて最初からないし、彼女のほうにそういう気があるとも思ってなかったけどね。ちょっとフザけてみただけさ。俺は振り向かずにスタスタ歩いていったので、彼女がどんな顔をしてたかは見なかった。振り向いたら視線で殺されてたかもね。ははは。


勝負してやるよ、なんて言ったところでこっちは部活が終わる頃にはもうヘトヘトになっててさ。
実は俺、彼女が部活終わってもしばらくシュート練習とかしてるからちょっとビビったりしてた。マジかよ!って。
で、俺たちは最後の最後に部室に引き上げて、いつものように残務処理して出てくるときにはもう体育館にはいつもどおり誰もいなかった。ちょっとなんつーか半分半分。ホッとしたのと少し残念なのと。


その頃は既に彼女は美人さんでヤロウどもの話題に上ることが増えてたし、俺も一度は接点があったから(といっても卑怯者呼ばわりですが)、ちょっと愛着が湧いてたっつーかまあ、何とかもう少しお近づきになりたいものだとも思ってたのさ。
なにしろ彼女のユニフォーム姿、特にあの白くてスラっとした足なんか最高だったからさ。ははは。


俺はあまり親しくはない同じ部の連中と体育館を横切って出入り口に出た。
そしたら出入り口から3段くらい下がる階段のところに彼女が座ってたのさ。なんつーの?膝を抱えるように座ってて。膝頭にちょこんとあごを乗せてさ。可愛いんだこれが!で、俺たちが通りがかるとサッと顔を上げて俺を睨みつけた(まあそーゆー顔なんだよ)。
だから俺は立ち止まって言ってやった(連れはみんなそのまま疲れた顔で遠ざかっていった)。

「なんだ。制服姿じゃ勝負できねーじゃん?」
そしたら彼女は下を向いて、それからまた俺を見上げて
「いいよ今日は。それより最近マジメにやってるじゃん部活」
「だってよー。退部すっと草むしりなんだぜ。卑怯者って呼ばれたうえに草むしりなんてすげーカッコ悪いじゃないですか」と、俺は言った。
そんですかさず、
「おまえんちどこだっけ?」と訊いた。
「○×町」
「じゃ、バス通?」
「そうだよ」
「大通りからも出てるよな?」
「大通り経由だよ」
大通りってのは俺たちの高校から一番近い繁華街っつーかまあ俺たちの街の中心地の繁華街の目抜き通りのことで。ここまできて誘わなかったら鈍感すぎてイタいんで、
「じゃ、あのへんのどっかでなんか食ってから帰りませんかお嬢さん」
って誘ったんだ。
「わたし、歩きだよ」
「じゃ、俺のZⅡで」これはバイクの名前だけど、俺のZⅡはもちろんチャリです。
っつーことですんなり話が決まったってことさ。
で、彼女と2ケツして大通りに向かい始めたんだけど、走り始めてすぐ彼女が後ろから言ってきたこと。
「なんでいいニオイすんの?」
「あー。これ実はですね。ベビーパウダー。なんでかっていうと、それを全身にはたきまくってるからです」(なにしろボクシング部はクセーだよ。それをどうにかしたくてね)
「へんなの」
「裸でパウダーふってる俺は確かにヘンタイだ。背中にふるのも上手いよ」


すると彼女は今まで掴まっていたサドルの下から手を離して俺の身体に手を回してきて、それから俺の背中に鼻をくっつけてふんふん匂いを嗅ぎ始めたもんだからテンション上がっちゃっておかしくってチャリがふらふらしたりして、俺は「くすぐってーよ!っつーか鼻息荒いよガハハハハ」と言ったら彼女も笑ってた。
「あんまり吸い込むと鼻の頭が白くなるぞ」って言ったら急に身を反らしたので、
「なるわけないじゃん。そんなにふってたらとっくに俺のシャツが真っ白になってるぜ」
と言ったら、それには答えず俺の背中に頬をつけてもたれかかってきた。
「寝たらシぬからね」
と俺が言うと、
「うん、大丈夫」と言って彼女は回していた左腕にもう一方の腕もまわしてきてガッシリ抱かれちゃったもんだからコーフンしちゃってヤバかったッスよ。


「…。ミカちゃん。彼氏いんの?」
「私の名前知ってたんだ?」
「Fのヤツに訊きました」ちゃんとリサーチ済みの俺。ははは。
「私もA組のコに聞いたよ」
「じゃ、ジョーって呼んでください」特に意味はなかったんだけどね。
「つまんない」と、間髪入れず刺すようなツッコミがきて、
「…たはは」って俺は苦笑しちまったのさ。そしたら、
「いないよそんな人」って彼女が言うから、
「ごめん。面白くなくて」って言ったら、
「違うよ。さっきの話」
「へっ?」
「彼氏いないって」
「あ、そう…」
「あ、そう、って」
「じゃ、好きな人とかいんの?」


っつーかさ、この状況でこんなこと訊いてる俺ってほんとはおかしいじゃん?だって二人でチャリ乗ってんだぜ?どう考えたって彼女は俺に好意を持ってるはずじゃん?
でもさ、こんな状況でもこういう話するのがティーンネイジラブだよね。なつかしくってキュンとしちゃうよな。
「好きな人っていうか…、気になる人は、いる」
「誰?」
「ゼッタイ言わない」
「そうね~。じゃあどんな人かだけでも教えてくれませんかね~」
「ねえ。何で知りたいの?」
形勢逆転を狙った一発だね。
言われたところで俺はギギーっとチャリを急停車した。
そして彼女が座ったまま倒れないようにチャリを押さえながら、サドルから降りてクルリと彼女のほうへ振り返り、すんげー作り真顔(←分かる?)で、
「Bにタケオってやつがいるんだけど俺と同じチューガクの。あいつがミカちゃんのこと好きだって言ってたよ」
と、言うと、
「知らないそんなコ」と彼女は言い、何か驚いたような寂しいような顔をして下を向いてしまった。
まあこの期に及んでクッダラネーこと言ったってことだ。そんなこと言ってどーすんだよ俺!と俺自身も内心思ったね。


焦った俺は、
「でもね、あいつに言っといた。ミカちゃんは俺がもらうって!」
ってもうマジ本気だったけど努めてバカみたいに軽薄に言ってみたんだ。言ってみたっていうかテレ隠しだね。
そしたら、
「フザけてんでしょ?」って下向いたまま言うもんだから、ちょっと次の手考えるまでに、
「まー、あれー?…。まず何か食いましょうね」
って言って、あたふたしてまたチャリにまたがって走り出したのさ。
さっきまで回してた腕はもう伸びてこなくて彼女はまたサドルの下を掴んでた。
それでもちょっと俺の背中の匂い(ってヘンな表現だなぁ)を嗅いでるのが分かった。
で、俺は軽口たたくわりに愛の告白なんてまともにできやしないんだけど、顔を直視しなくていいこの状況に乗じて一発決めてやることにした。


「ミカちゃん。さっきの話は冗談だからね」
「…分かってる」
「あー!あのね!冗談なのは途中までだからね途中まで!」
「…どっからどこまで…?」
「んーとね。んーとね。ミカちゃんは俺がもらうってところはホント」
「ウソでしょ」
「うん。ウソっ!(元気よく言ってみました!ってヤバい。またフザけちったぜ)…。
っつーかタケオにそう言ったってのはウソ。だけど…。気持ちは、ホントだぁっ!」
思わず叫んでる俺がいたりして、ああ青春だったぜ。


それから一瞬沈黙があって、俺ははっきりいって超テンション上がってマジで心臓がバクバク言ってた。なんでか必死でチャリ漕いでるし。っつーか立ち漕ぎしそうになって腰が浮いたんだと思う。そしたらするするっと彼女が俺の身体に腕を回してきた。
「なんかウソっぽいね」とさっきよりかいくぶん明るい声で彼女は言った。
それから、
「それって告白?わたしたちつきあうの?」なーんて訊いてきたもんだからまた焦っちゃってさ。
「あのね。俺たちつきあったらケンカばっかししそうだな。あなたイイコ俺ワルイコ。あなたマジメ俺不マジメ」
「わたしそんなにマジメじゃないよ」
「じゃあ問題なし!ってことでよろしく」
「なにそれよろしくって。わたしまだOKしてないよ」少し意地悪げに笑ってるのさ。


「俺がミカちゃんの気になる人ってどんな人か当ててやるよ」
「へえ」
「卑怯者でしょ?」
「卑怯者は嫌いだよ」
「じゃ、ミカちゃんよりバスケ上手い人でしょ?」
「1回シュートしただけで決められないよ」
「じゃ、どんな人よ?」
「いい匂いする人」
(わお~ん!吼えたね、俺は)
あー、もう俺のあのときの天にも昇る気持ちをみんなにも分けてあげたいね。つーか今の俺に分けてもらいたいよ。ま、いいか。


「あんたも言いなさいよ」
「あんたってあんた。マーくんって呼んで。ラブつけて」
「ラブの意味分かんないよ。マーくんの好きな人はどんな人?」
「仁王立ちで待ち伏せしてる人」
って言ったら彼女まわしてた腕を外して俺の背中をバーン!って叩きやがった。

 

在りし日の下北沢の思い出

 

ちょっと解説しておこう。今から書かれるのは15年前に書かれた15年前の記録なので30年前の話です。下北沢が再開発されるずっと前の話。

 

2004年12月10日記述

今から15年近く前。

先輩のバンドマン連中が下北の駅前で無許可路上ライヴをやるというのでビデオカメラ片手に美鈴という女の子を誘って見に行った。美大に通っていた美鈴は何やら大層な一眼レフをぶら下げてやってきた。

路上ライヴというカルチャーはいつの時代も無くならないが、当然違法行為なので、そのときもすぐ警察がやってきた。
最初の警告をしてすぐ居なくなるのだが、居なくなってまた始めるとやっぱり再登場する。
仕方ないのでドラムセットやアンプを片づけ警察(今度は片づくまで帰らなかった)が帰った後、今度はヴォーカリストが弾き語りでライヴを続行する。
弾き語りといってももともとストーンズマナーのバンドをやっている人なので騒々しい。地力のあった人なので声がデカい。
ほどなくして警察の人がまた来る。無駄な抵抗と知りながら「このぐらいいいじゃないか」と文句を垂れる。

私はその模様を撮影しようと近づいて行ったら、警察に「すぐ止めろ!」と怒られた。ので、密かに撮影するためその場を離れ美鈴と近くの階段に昇った。

アコースティックギターを抱えたヴォーカリストが警察と押し問答しているところへ、さっきからずっと遠巻きにブラブラしていたチンピラ風の二人連れがやってきて、「オマワリさん。そのくらいいいじゃねぇか、元気よくてよぉ」などと割り込んできた。
こういう人たちは酔っ払っているのか、キメてるのか、あるいは頭がおかしいのか度胸が全然違うのか、私などは警察というだけで怖れおののいて萎縮してしまうのに、彼らは全然おかまいなしで警察にからむからむ。
警察は一人が注意続行、もう一人がチンピラたちをなだめつつ引き離す。もちろんチンピラに言われたからといって衆目の前で警察が引き下がるわけでもない。チンピラ二人も飽きてしまったのか、またその辺をブラブラとし始める。

何度目かの警告も無視してライヴを続行したためか、「派出所まで来るか?ヲイ」という話になる。

そういうやり取りを私は少し離れた場所で美鈴とともにハラハラしながら見守っていたのだが、今度はそことはまた反対側でさきほどのチンピラ二人が何故か言い争いを始めた。
片方が兄貴分らしく、怒号を響かせながらいきなり相手に激しくビンタ!
これには警察もビックリし、こちらの方にはもう帰れと言い残し、チンピラたちの方へシフトチェンジした。

私たちは内心チンピラアニキたちに感謝しながら駅前から逃げた。
(彼らのパフォーマンスは、そんじょそこらのバンドマンの若造とは違うんですね)

 

そしてガード沿い(あそこは何と呼んだのか知らない)に屋台をはめこんでしまったおでん屋で、夜になり低いアーケードになった短い商店街が閉まってシャッター街になると、ビールケースをならべた上に大きな板を置いてテーブルにし、抜け道を塞ぐように”テーブル席”にしてしまい、打ち上げ。

私も車の中にいつも積んでいたアコギを持ってきて、みなそれぞれ飲みながら弾き語りが始まる。私たちはいつも、たとえばアニマルズの『朝日のあたる家』、ストーンズの『ハート・オブ・ストーン』、後は適当なキーでスリーコードのブルースナンバーをガナるのが定番だった。先輩のバンドマンたちは、その頃プロを目指して日々あがいていた人たちだった。歌やギターは本当に素晴らしかった。それでもプロになれないことがあるのは当たり前に分かっていることだが、もったいないことだったと思う。

その夜も大いに盛り上がった。

私はギターを誰かに渡してしまうと、ポケットからブルースハープを出して吹きまくった。吹きまくればなんとなくサマになる。

時折(というかそれなりに頻繁に)、駅から家路につく人たちが私たちの後ろをかすめるように通って行く。

私は酒は飲まないので、その恰幅のいいスーツ姿のサラリーマンが駅方向から来て、私たちの背中を通って帰っていったのを憶えていた。
ほどなくして、その人は戻ってきた。
私たちのテーブルにスーパーの袋をドサリと置き、「みんなでどうぞ」と言った。中はオニギリやビール缶でいっぱいだった。
私たちは感激し、皆で「ア、アニキ~!!」と叫んだ。
アニキは既に背中を向けて歩き出していた。私たちの声に片手をひょいと上げて、そのまま去っていった。

 

夜も更けてくると、別の場所で出来上がってきた、まったく知らない連中も混ざってくる。

2本のアコギと、持ち回りで適当に歌われるブルースジャムもやたらテンションが上がる。全然知らない連中に煽られて、私も下手なハープを必死で吹きまくった。


なかなかに気合の入った1曲が終わると、始終ニコニコして一行のことをカメラで撮影していた美鈴が私の隣に腰を下ろし、「今のはすっごく良かったね」と言って頬にキスをしてくれた。

 

「ストーン・シティ」 ミッチェル・スミス

 

2004年10月22日にどこかに書きました。

 

昔、一度買って読んでいるのだが捨ててしまったのでまた買った。同じビデオを2回借りるのとあまり変わらない。

アメリカの刑務所内で発生した殺人事件を、囚人である主人公が解決する話。とにかくアメリカの刑務所は恐ろしい(前にも書いた気がする)。

ただ、私の心に強く残っていて、今度もまた買う気にさせたのは、飲食物の描写シーンだった。別段特に丁寧に記述されているわけではなく、実際に飲んだり食べたりしたら不味いに決まっているのだが(不味いと書いてあるし)、何故か懐かしい味を思い出した。子供の頃に食べた、駄菓子の味。まがい物の味。下品な味。不健康な味。

物語の中で「ジェロー」と呼ばれるライム・ゼリー。主人公はとてもじゃないが食べる気がしない代物らしい。

それで私は、子供の頃に駄菓子屋で売っていた常温の寒天ゼリー、合成着色料であざやかな緑色をしていたものを思い出した。

パン粉でかさ増ししてある卵焼きや、得体の知れない発酵ジュース、まだほんの20ページも進んでいないが、とりあえず食事のシーンが良かった。


ーーーーーここから別日に記述-----


ミッチェル・スミスの「ストーン・シティ」読了。

(といっても、少なくとも5,6回目だが)

きちんとした筋書きについてはネットにいくらでも転がっているだろうから、参照されたし。

主人公バウマンに感情移入できるほどの魅力はほとんどない。酔っ払い運転で少女を轢き殺し、混乱してその場から去ってしまうことで刑務所に入れられる。そこから遺族の神経を逆撫でするような電話をかけたりする。物語中何度も指摘されるが、自分が一番頭が良いと自惚れている。

だが、気がつくとバウマンの目になって物語を読むことになる。どうしたって他の登場人物よりもやはり自分に近いのだ。そして一緒に怖れおののいて凶悪な犯罪者の間で暮らしていく。


確かにアメリカの刑務所は恐ろしい所のようだ。そのことについてはたくさんの小説や映画で描かれている。映画「ショーシャンクの空に」や、「スリーパーズ」では、囚人(あるいは看守)のレイプシーンもある。私の知り合いの知り合いの知り合い(ようするに知らない人だが)も、空手の有段者でありながら、アメリカの刑務所内でレイプされエイズに罹った(有段者でなければ路上で金を取られるだけで済んだのかもしれない。あるいは路上でヤラれただろうか。殺されるだけで済んだだろうか。殺されるだけで?)。

私はまるで「I.W.G.P」を観て、池袋ってこえーと思う田舎者のようだ。歌舞伎町はおろか新宿へも怖くて行けない、ってことになる。

しかし「ストーン・シティ」となれば「トレイン・スポッティング」を読んでエジンバラこえーなどと思うとはわけが違う。

まわりには犯罪者しかいないのだ。凶悪で、タフで、飢えている。


LSD売買で収監されたリー・カズンズは、恐ろしい暴行を受ける(この描写は本当に恐ろしい。私は性暴力を心から憎む)。元からそういった素養があったか無かったかは記述がないが、それをきっかけに所内で”女性”として生きることになる。美しい”女性”としてしか扱われないからだ。

そういった”女性”、ホモセクシャルのオカマだが、そう珍しくはなく、庇護者の囚人と夫婦(恋人)のように暮らしている者たちも少なくない。

カズンズは白人の中ではひときわ美しい(といっても所内での話だろうが)とされている。カズンズが男らしく振舞おうとすればするほど、まるで少女が懸命に少年のように振舞っているような感じだという。逆に、ってことだ。


カズンズの可憐さにやはり倒錯した感情を抱いてしまう。

ダンスシーンから。


「気楽にやれ」と声をかけてやると、カズンズは少し肩の力が抜けたのか、顔に笑みのようなものを浮かべた。バウマンが盛んに足を踏み鳴らし、腰をひねり、尻を振って、おどけ役を演じているうちに、カズンズの動きからしだいに硬さが消えていく。そして、しばらくすると、ブルーのデニムのズボンと、プレスしたばかりのブルーのデニムのシャツに身を固めた美形の若者は、まるで奇跡のように、少女になって踊り始めた。その姿は、ベティが苦労の末に身につけた女らしさを、たおやかさの面でも、いじらしさの面でも、一途さの面でも凌駕していた。少女になりきっているばかりではなく、アングロサクソンの女がラテンに対して持つ、ほんのわずかな気後れまでも、みごとに表現されている。

(もちろん、ベティというのも男の囚人だ)

本当は随所に出てくるカズンズの話している様のほうがボーイッシュな女の子らしいのだが、抜き書きしづらいので、ダンスシーンにした。


しかしカズンズが美しくなる、ならざるをえない、美しいからこそ、絶え間なく降りかかる災難。悲劇的な結末。

私はバウマンとなって、刑務所内の命と命のやり取りに吐くほどの緊張を強いられ、友情に支えられ、高い塀の中、暗いトンネルの中、想像もつかない冒険をする。

なんとも読み応えのある物語だ。私にとって物語で良かった。

ほっ、と胸を撫で下ろす。貴重な読み物でした。英雄はいない。

 

 

 

 

2019年現在

この本は今も手元にあるんですよ。取り出せるところに。

確か解説にダスティン・ホフマンか誰かが映画化権買ったとか書いてあったと思うんですが、その話どうなったのかいまだに聞いたことないですね。


ノワールではないのか。サスペンスっていうのかな。娯楽としてすごく面白いですよ。
ただ上下巻なんですけどね。
文庫だし、貸しますよ(笑)。