人間と犬との共生

 

先に書いておくと、この記録はスマホ画面で読むのは大変かも。
でもですね、昔は真面目なことも考えてたってことで。
これは以前、犬飼いだった頃に開いていたwebサイトの記事の抜粋です。

 

 

 


///// 2003.08
人間と犬との共生

犬飼いとして都市で暮らす基本スタンスみたいなものを改めて考えてみました。 あくまで個人的な考えです。一応、このメモページで 「ペット」 に関する話題、ニュースを 採り上げたりしているので、編者の立ち位置を少し説明しておかなければならないかと思ったので、何とか言葉に してみました。
私はこう考えている、皆さんも犬飼いとしてのスタンスを考えるのも悪くないのでは?


元気でいてくれればいいとか、言わずもがななことは別として、社会的な側面で僕が 「自分の犬」 に求めるのは ”行儀が良いこと” です。 何をもって ”行儀が良い” と定めるかは議論のあるところですから、言い換えると ”飼い主である自分が、自分の都合で制御できること” を 求めたと思って下さい。あくまで僕の犬の話ですからね。

何故、行儀が良いこと (制御できること) を求めているかというと、人間社会で犬が行動するために=自分が自分の犬と都会で暮らす上で、 必要だと感じているからです。
何故、必要かと思っているかはおいおい説明します。

ときどき、 「ウチは犬に自由にさせている」 という犬飼いもいます。たぶん、僕が求めている ”行儀の良さ” と基本的に同じはずです。 「自由にさせている」 といっても野に放っているわけではないのですから、人間社会のルールを守っているのでしょう。そうでなければ排除されます。
人を噛まないし、吠えないし、壊してはいけない物を壊したり、どっかに逃げて行ったりしないわけです。

そういう意味では、僕が 「自分の犬」 に求めた考え方の規範になっているフランスの犬たちは、実に ”自由” にしております。 そして驚くほど ”行儀が良い” のです。もちろん、そうでない犬もいますが、フランスの犬は概ね ”自由” で ”行儀が良い” ように見えます。


具体的に、何が自由だと思っているかというと、一つにはフランスはノーリードの犬が日本より多いことです。コレ自由でしょ?
出入りできる場所が多いことにも自由を感じます。お店やレストランに気兼ねなく犬を連れて行くことができるので、留守番させずに、 様々な場所へ連れて行くことができます。だからといって大型犬がバスに乗ってたりはしないんですがね。そのへんはバランスです、バランス。 自由と野放図は違いますから。
お分かりかと思いますが、 ”自由” といっても、犬が自由なのではなく、犬飼いが自由なのですね。犬飼いにとって不自由なことが 日本より少ない、ということです。決して本来の意味での自由ではありません。
都会で暮らす犬飼いの自由、という意味ですね。自分に都合が良いということ。
そして、犬飼いの自由が、 (人間社会で暮らす) 犬にとっての自由でもある。
という前提で許してね。先進まないから(汗)。

何故、そのように ”自由” なのかと考えると、フランス人の気質である 「何が悪い?」 という考え方もあるでしょうが、 基本的に犬たちの ”行儀が良い” からだと思われます。
ノーリードの犬は (言っとくけどたくさんいるわけじゃないからね) 、まずほとんど飼い主の側を離れません。 ごくまれに、一人で散歩している犬も見かけますが、その場合はほぼ確実に周囲の人間や犬に対して興味を持ちません。 時折、挨拶の匂い嗅ぎに近づいてくる犬もいますが、一瞬で去ります。「よぅ。オマエだれ?んじゃ」みたいな感じです。 「ふーん」もナシですよ。
ですから、犬同士が絡んでいること自体が少ないのです。飼い主のことだけを見ている犬か、自分の世界に浸っている ようにしか見えない犬がほとんどです。
僕 (人間) が渋谷駅ですれ違う人といちいち挨拶しないのと一緒。一緒?

これはあくまで私見 (まぁ上から下まで私見なんだけどさぁ) ですが、日本の場合 「犬が楽しめる手段の一つとして、他の犬と 接触する (遊ぶ) ことを積極的に行なう」 という考え方が一般的なのに対して、フランスの犬 (およびフランス人) はそのような 考えを全く持っていないような気がしました。
先に説明したように、飼い主も連れず散歩をしている犬でさえ寄って来ないのです。街中だろうが、公園だろうが、犬同士が 遊んでいる (接触している) 場面もほとんどありません。犬連れと犬連れはただすれ違うだけなのです。
どちらが正しいかとかいう話ではない、ということを断っておきます。

*ただし、同犬種の場合は例外かもしれません。仏ブルの場合は人間同士挨拶します。特にウチの場合、仔犬だったので よく声を掛けられました。

長々と外国の状況を書きましたが、別にフランスを礼賛するつもりはありません。全ての犬が幸せかどうかは分からないし、 トラブルもあります。欧米型が進んでいるとかいうつもりはありません。そういう社会もあり、こういう社会もあり、僕個人は、 自分が犬と暮らす場合に、どのようにしていくか、ということを考えたということです。


僕が子供の頃、日本にゴールデン・レトリーバーはいませんでした (うそ)。
ずっと、犬は外で飼うものであり、散歩は引っ張ったり引っ張られたりしながら行なうと思っていました。時代が流れ、 ブームが来ては去り、様々な洋犬種が輸入されはじめると、欧米型の犬飼いスタイルも日本にやってきました。
僕はずっと家族で社宅暮らしだったので、犬を飼うということは考えもしませんでしたが、一人暮らしを始めてから、 そうですなぁ、今から10以上前に一度、本気で犬を飼おうと思ったことがありました。
当時屋内飼育できる犬はトイ・プードルマルチーズシー・ズーダックスフントしかいませんでした (うそ)。
会社の移転とともに部屋探しをしていたとき、希望に 「ペットの飼育可能」 という条件も入れていました。 見つかったんですよ。折り合いのつく物件が。夢、見ました。ほわわわわ~ん。
でも、夢とあきらめました。仕事をしながら一人で犬の面倒はやっぱ見れない。

と、いうような思い出を語るためにページを割いているわけではないのですが、いろいろと想念が浮かんでくるんですよ。
とにかく、日本での犬の飼育に関して、昔と今では大きく変わった 部分もある、ということを言いたかったのです。


で、時が経ち、外国暮らしの中で、僕は 「自分の犬とどのように暮らしていくか」 ということを決めていったわけです。
この姿勢は人それぞれ違いますし、時代や環境によっても変わっていきます。

現在、僕は犬飼いになり、自分の犬に対して、 ”行儀が良い” ことを要求しています。
いかなるときも 行儀良くしてろと言ってるわけじゃないのですよ。
ウチの犬は 「行儀が良いですね (おとなしいですねぇ)」 と言われることが多いのですが、それはどういう状態かというと、 飛びついたりすることが少なく、吠えないからであり、むやみに動き回らない (ように見える) 、落ちついている (ように見える) から なのですが、それは制御されているからです。
いや、本気で褒められてるとは思ってませんよ。お世辞で言ってもらってるって分かってます。
つまりまぁ、その程度のことです、ということです。

そのように 「しつけ」 をしたので、完璧とは言い難いですが、落ちついているように見えます。もっと厳密にいうなら、 落ちついているように見えるときもあります。
何故、落ちついてる=行儀が良い、ということを求めているかというと、必要だと感じているからだと最初に書きました。 それではさらに、何故必要だと感じているかを書きます。


躾とは結局のところ、犬の社会化、それとコミュニケーションですよね。
これは飼い主と犬とのプリヴェな関係だけではなく、犬が人間社会で生きて行くために、世間のルールを教えるということ であります。押し付けるわけですけどね。
でもって、社会ってものは不確かなものでありますので、時代によって変わるし、日本と外国では置かれている立場も変わってくる。 日本国内でも、どんな地域なのか?どんな住環境なのか?それは様々ですので、その環境に合った躾が必要になってくる。 だから一概にアレはイイ、コレはダメってわけにいかないだろうな、と思っています。

やり方、躾け方にも違いがあります。
ウチはこれでOKでした、何でそっちはダメなの?
って当たり前にダメに決まってますよね。
双子だって性格違うんだから。同じ教育を受けたら同じ人間が出来上がんのかよ、オマエSFか?みたいな(意味不明)。
だから 「本の通りにやったけどダメだったからダメ」 って言ってる人間がダメ。
もちろん、本や経験者の意見などを大いに参考にするんですが、性格や体格によって、躾け方は千差万別ですよね。
このページを読んでいる方は百も承知と思いますが、そのような当たり前のことを分からない人も少なくありません。 そういったニンゲンが、問題犬を作り出し、保健所を機能させ、不幸な社会を作っているのです。


僕はゴリラに育てられたわけじゃありません。
人間の母親と父親、地域社会に育てられて、やっと人間らしく振舞えるようになったのです。

制御=躾=社会化=コミュニケーションは、「自分の犬を他者から守るため」 に必要なことなのです。
そりゃ何から何まで好き勝手にやらせたいと思いますけどね。でもそれで誰かが迷惑を被っていて、憎しみを持つかもしれないことを 忘れてはいけません。

最近ではS.A.R.S騒ぎで犬猫が無残に殺されました。
一旦、人類にとって損害をもたらすとされた場合、個々の性質はともかく、それというだけで処分されていくのです。
S.A.R.Sの例は極端だとしても、たった何人かのニンゲンが飼い犬の糞を放置したせいで (あるいは単なる気狂いのイタズラで) 毒物が撒かれたり、矢を射られたり、身近に、実際に危険は常にあります。
だからそういった危険から身を守るために至極常識的な範囲で僕たちは犬の自由を限定しなくてはなりません。それは 僕たち飼い主の都合だけではなく、犬を憎んでいる人からの防御、犬を飼っていない人たちへの配慮を含むわけです。

他者から守るために一番簡単なのは他者に迷惑を掛けないということです。これもまた生活環境によって左右される事柄 ですが、最低限人間社会で共生していくには 「むやみに吠えさせない」 「噛ませない」 プラス飼い主は 「排泄物を始末する」 を守ればよいと僕は考えています。

極端な話、家の中ではモノは壊すし家族は噛むし、トイレは全くおぼえない。それなのに外へ出掛けると愛想が良くて人に撫でられると尻尾を振る。後は、飼い主がcacaを拾って帰れば最高の犬と誉れ高いわけです。

最近は洋犬種のブームとともにコンパニオンとしての犬との付き合い方に関する情報も入ってきていますから、 昔みたいに、社会化のチャンスを与えられずに神経症になってしまっている犬 ---飼い主は 「甘やかされてるから王様気分なの」 とか、 「ごめんなさいねぇ。ウチのコは自分のこと犬だと思ってないの」 とか、「気が強くてねぇ」などと言う場合が多い--- とか、庭の隅に 繋がれて吠えまくっている悲惨な状況の犬とかは相対的に減少傾向にあると思いますが (願望) 、まだ「自分の躾が出来てない ニンゲン」は多く存在しています。
ようするに、本来の 「躾」 の必要性を感じていないと思われる人が多いのです。
トイレの躾はベツモノです。もっと大事なこと。

とあるカフェでの出来事。
父母娘と思われる3人連れ+小型犬。
椅子の上に置かれている犬が、近くを人が通るたびに吠えかかる。父親がそのたびに犬を叱るが、犬は言うことを聞かない。
挙句、娘は 「ちょっとぉ!いっつも何もしないくせに何で急に怒るのよ!やめてよ!」 と父親をなじった。
俺がミルコ・クロコップなら娘のテンプルにハイキックをお見舞いしてやるところだ。なじられた父親は黙ってしまったそうだ。僕は ミルコでもないし、その場に居なかったので、ハイキックはお見舞いできませんでした。

吠える犬がダメだとは言いません。
吠えさせてはいけない場所で吠えさせてはならない、という、いちいち書くまでもないことを書いててアホみたいです、ボク。
僕は公共の場すべてに犬連れで行けることを望んでいます。行くか行かないかは犬飼いの自由であるべきだと思っています。
犬が嫌いな人、犬が怖い人に対する配慮はどうなんだ?と言われても、そうなると道路さえ歩けなくなります。犬嫌いが優先されて 犬飼いが遠慮しなければならない理由はありません。同時に犬飼いの権利だけを優先させるつもりは当然ながらありません。
犬が怖い人に対する配慮も基本的に同じです。人に危害を加える犬は都市生活に向きませんが、危害を加える犬ばかりではありません。

常識 (常識の違う人もいるので、この言葉は難しいですが) 的な犬飼いなら、すれ違う人に犬をけしかけたりしないし、社会化を済ませている犬なら、むやみに人に飛び掛りません。怖がることはないし、遠く離れた犬すら怖くて仕方の ない人は、その恐怖心を克服するべきです。 子供の頃、犬に襲われて死にそうになった、とします。その犬、その個体に対して恐怖心があって近づけない、のは分かります。 でも、その犬とこの犬は違うわけですから。犬の前提が 「危ない」 とか 「汚い」 とか、おかしいですよ。 犬とすら共生できない人間社会なんておかしいと思ってます。 「躾けられていない犬は嫌いだ」 とか、 「噛みついてくる犬は怖い」 のは当たり前です。そのような犬にならないように、 犬飼いは躾を施しているわけですから、僕らはどんどん活動の場を広げてもいいわけです。 ただし、例えばマーキングを店の中でしてはいけないわけです。そのような心配があれば、そうならないように抱いているとか、 はなから連れて行かないとかすればいいわけです。ウチはあまり心配ないので歩かせます。あまりにも長時間だったりすると心配なので抱いたりします。荷物が多くなりそうな買い物の場合は留守番させます。 なんか別に変な話じゃないと思うんだけどなあ。 僕は 「犬が嫌い」 という理由で犬を排除したいと思う人間の意見には何一つ同意できません。 犬が嫌いな人に遠慮するつもりは全くありません。ただし、無用のトラブルを避けるために配慮しているだけです。

2003.08.16 追記
誤解のないよう念のため重ねていいますけど、噛んだって仕方ねーよとは言ってませんからね。手を出すほうが悪い、ということではありません。
飼い主が、 「犬だって急に手を出されたら驚くということを認識しなければならない」 ということを、他人に対して強制することはできません。
ただし、僕は 「噛み癖がある犬」 であっても人間と共生できると思っています。もちろん、他者を攻撃することを目的に躾けられた犬が 街に出ることは許されません。当然です。
とにかく、全ての犬飼いは必要な躾 (社会化、コミュニケーション) を続けるべきだし、自分の犬の性質にあった行動を取れば何ら 遠慮すべきでないと思っています。レストランでもデパートでも気兼ねなく犬連れで入れればいいし、電車でもバスでも乗ってもいいと 思ってます。


某日 /////
個人的に躾 (トレーニング、社会化) はコミュニケーションだと思っています。 「話の出来る仲になる」 ってことですね。
しつけトレーニングとは我々人間と犬とが幸せに共存していく上で必要不可欠なことであり、 お互いが理解しあうことなのです。犬に我々人間社会で暮らすことを強いている以上、人間社会のルールを教えてあげな ければなりません。
何もわからない相手(犬)に厳しくトレーニングをする必要はありません。相手が落ち着いて 理解出来るようなステップで進めてあげてください。落ち着いた状態でトレーニングが出来なければ、相手は教えられた ものを吸収出来ないばかりではなく“拒絶”してしまうのです。人間も最初から厳しくビシバシと教えられるものに対しては、 自ら学ぼうという気持ちの前に“恐怖”や“拒絶”といった状態に陥るのです。これではお互いが空回りするばかりです。
朝日新聞のWEBサイトで連載されている「犬との楽しい生活」という特集から引用しました。

確かこの連載にも書いてあったと思いますが、躾は成犬になってからも出来ます。コミュニケーションにゴールは無いですよね。だから失敗もないと思うんだな。相互理解に到達するまでに上手く行かないこともあるでしょうが、で、1歳になったからもうダメ、失敗で終わり、みたいなそういう話じゃないってことッス。
何歳になろうが、僕らは犬とコミュニケーションを取るわけです。当たり前ですよね。そのために来てもらったんだから。
言うことを聞かせた、命令に従ったから喜んでるんじゃないんです、言うことを分かってくれたときめちゃくちゃ嬉しいんです。
だから人間側も、犬の言うことを分からなければならない。そのために共通言語を持たねばならない。それが躾ですよね。 どのように躾たらいいのか?それは全世界の犬飼いの悩みであり楽しみです。
犬を好きで本当に良かった!こんな楽しい人生はない!!

某日 /////

最近、keyさんの日記とか読んでて、アメリカと日本の犬飼いシーン違い、犬君たち(飼い主のニンゲンじゃなくてね)の 置かれている状況の違いに暗澹たる思いを感じていたりするんですがね。

海外事情を知ると、日本の犬たち (特に街暮らし)の暮らしづらさばかり感じてしまう僕なんですが、ペット先進国っての は犬飼いたちが義務を果たしてきて得た権利なんですよね。単に犬が好きとか、動物愛護が浸透しているとか、 そーゆーことでもない。ルールの遵守なのかと。それを置いてけぼりにしてしまうんだな、つい。

結論はいつも同じなんだけど、犬飼いがしっかりと社会性を身につけて、自分の犬だけの権利を求めず、全ての犬君たちに責任を持つ、っつーか、持たざるを得ない時代になるんじゃないかと思う。
僕らが意識をもっと高く、広く持っていけば、犬たちはもっと暮らしやすくなるはずなんですよね。
不幸な犬たちを減らすために、幸せな犬飼いが考えなければいけないことってまだまだたくさんあるなって感じです。 なんかさ、全ての犬に責任持つってのは大袈裟な話だけど、自分の犬はきちんとコントロールして、置き土産は残さず、 公衆の面前では行儀よくするっていう当たり前のことをこれからも努力する、と。
それだけなんだよね。キチンとやってればさ、誰からも文句言われる筋合いはないわけ。本来は。ところが、どこかの誰かの犬が人を噛んだとか、ギャンギャン吠えたとか、排泄物を放置していったとか、コッチはちゃんと暮らしていても 他の犬飼いがそんなふうだと全ての犬飼いが白い目で見られるんですよね。一緒くたにされる。
そして、いろんな場所が出入禁止になり、規制、排斥が始まるんですよ。
だからね、うーん、と。まぁ僕も常にそんなこと考えてないし、実際ぜんぜん立派な飼い主とは言えないのですが、 自分の犬がですね、「カワイイ~、こんな犬を飼いた~い」と思われるより「こんなふうに行儀の良いコに育てたい!」 と憧れてくれるような対象にならなければならない、なんて・・・・あはは。いやー、そこまで責任ねーか!

最近、仏ブル(あるいはボストン)、ブルテリアなんかが広告に多く使われてて「犬と暮らすライフスタイル」的なものが ”充実した人生”、”幸せな家庭” の必須条件みたいに謳われているような気がするんです。
「我が家には犬がいます。オシャレで幸せ♪」みたいな。
仕事しに電車乗って渋谷駅で降りると、上着の前開きや肩から下げてるバッグの中から可愛いチワワ君たちが顔を 出してたりしてね。いやまぁそれ自体に文句ないんだけどさ、なんか 「大丈夫なのかな?いろいろ」 って思ってしまうの ですよ。
今一度、自分に問いたいんですよ。
「俺は、俺が幸せでいるために犬を飼ってるんじゃないか?」 と。
だけど僕は「犬がハッピーじゃなかったら俺がハッピーじゃない。だから俺はバクティが幸せあるように もろもろやってんだ」と、思うんですよ。なんつーかこう、手のひらに汗かいたり、涙ぐんだりして。なんでだよ。
あ、なんか俺、青いかも!(笑)

食餌について
ウチは基本的にドライタイプのドッグフードを与えています。
ドッグフードの危険性を訴える情報もたくさん入っていますが、僕はドッグフードが100%悪いものとは思っていません。
何度か手作り食に変更したこともありますが、食物の内容で犬に変化が出たとは認識していないので、手軽という点でドライフードを採用しています。良し悪しのバランスの問題です。
何が優先されるのか。リスクがどの程度で、リターンはどの程度なのか。そういったことを鑑みて、今はドライフードを与えております。時々、「(昔の、という形容詞がつくことが多い)犬なんて残飯でいいんだ。残りメシで15年(18年でも何年でもいい)生きた」という話を聞きますが、そのような丈夫な犬は、良質のドライフードならもっともっと長く生きたんじゃないか、と僕なんかは思ってしまいます。
今は塩分や糖分など、人間と同じように摂取していると長生きできない、という説が主流ですが、僕はそれを信じています。なので、加工品は犬用に作られたもの以外、与えていません。豆腐、おから、等は時々与えています。むろん、味付けのされていない肉野菜などを与えることもあります。加工品はドライフードか犬用のビスケット的なものだけです。果物も果糖の摂り過ぎは犬の身体に負担になるので、ほとんど与えません。
「手作り食にしてから病気が治った」という話も時々聞きます。
結論をいうと、ウチの犬は皮膚疾患がありますが、手作り食にしても治りませんでした。獣医師の指示によりカンガルーの肉とジャガイモのみの食餌を半年続けましたが、皮膚疾患には何ら影響はありませんでした。もちろん、もしかしたら別の素材を与えれば違っていたかもしれません。ただ僕は獣医師による食餌性アレルギーではない、という診断結果を尊重しています。良くもならなかったし、今までも食餌によって体調の変化が見られたのは、盗み食いで食べてはいけないものを食べたときだけです。とほほ。
つまり、ドライフードであるリスクは低いということです。
ではプラスの面での手作り食に関しても、何をプラスとするか、という点であまり魅力的な面がないので、リスクの低いと思われるドライフードを採用しているわけです。
「人はカロリーメイトだけで生きていけるのか?」という意見もありますが、少なくともウチの犬はフードの内容によって何か大きな変化が見られたことはありません。いつもいつもボウルにフードが盛られると、我慢できないといった顔で、食べるのを許可されることを待ちます。
食餌内容での影響でいうと、一度だけありました。鶏肉です。
食餌性アレルギーかどうかを調べるために、最初は鶏肉とジャガイモのみの食餌に切りかえました。もちろん骨は与えていません。身の部分だけ、煮たものを毎日与えていました。1週間経つと散歩のときに何となく元気がないように見えてきました。
獣医師に報告すると、鶏肉の成分でそういった症状が出る犬もいるとのことで、鶏肉を使った食餌制限プログラムは中止になりました。手作り食に鶏肉は主たる素材の一つですが、それはかまわないと思います。手作り食は栄養バランスを組み立てられれば問題のない食餌になると思います。
問題は、人間が食べるために加工(味付け)された食品を犬に与えているニンゲンです。「ドッグフードだけなんて可哀想だ」、「短い一生なんだから美味しいものを与えてあげたい」という話を時々聞きます。
先ほどから書いているように、短い一生だから何年か縮まっても良いと思っている飼い主に飼われている犬は悲惨です。人間よりも体重が少なく、臓器の機能も違う生き物が、糖分や塩分の多いものを与え続けられた場合、最終的にどうなってしまうのか考えると恐ろしいです。
与えている食餌の量を考えると、1個のクッキーや、スプーン1杯分のアイスクリーム、ひとかけらのチョコレートなどが、人間でいうとどのくらいの量に相当するのか?成分がどのような作用を身体に与えるのか?一生は短くされ、晩年は病気で苦しみながら死んでいくかもしれません。
人間に比べ短い一生だとしても、健康に気遣い、ストレスの少ない楽しい日々をなるべく長く長く送ってもらうことが犬と一緒に暮らすということではないかと思います。
ほとんど全ての犬飼いがそう願っていると思いますが、そう思うなら人間用に作られた加工品を与えるのをやめたほうがいいと僕は思っています。
なので、僕は一切与えません。

 

 以上です。

 

ちなみに僕はもう二度と犬を飼う自信がありません。